I.1.真言門より行を行ずる菩薩

- 大乗仏教における密教の形成過程という観点から(1)-



0. 後期仏教綱要書に見られる密教の位置

0.1. 後期仏教綱要書における密教の位置付けyqna,naya, sthiti -

0.1. Advayavajra は、Tattvaratnqval] (『真理の宝環』)において、一乗を三乗に分けて説き、大乗(Mahqyqna)を波羅蜜理趣(Pqramitqnaya)と真言理趣(Mantranaya)の二種に分類する。その各々に中観と唯識という二つの思想的立場(sthiti)を相当させる。(2)その分類は、大乗の細分化というよりは、分類の基準が異なる別構造の枠組みと捉えられるべきであろう。〈乗〉という初期唯識以来の分類と、真言と波羅蜜という行の形態の分類と、思想的完成を見た四つの学派的立場という、それぞれの局面を統合化して系統化する際にそのような組織化がなされたのである。インド哲学の問題では一般に仏教は四学派という思想的立場(sthiti)の切口から分類され、〈乗〉や〈理趣〉に言及するものは少ない。(3) "yqna" という語は本来三乗もしくはそれに人・天乗の二乗を加えた五乗という表現が普通一般に用いられてきた。その分類は、大乗の意識と〈一乗〉の認識から派生した用語である。後代の密教徒は Vajrayqna と称し、顕教に対する秘密乗という観念から、密教を別の乗であるかのように捉えてきている。 それは、三乗に対する秘密乗という分け方で捉えられるべきものであろうか。金剛乗という意識がいつごろどの様な状況で派生してきたかは確かに問題である。(4)

 「金剛乗」という用例で〈乗〉の語が使用されるのは、本来の一乗・三乗という問題意識とは別個の脈絡にあると思われる。〈乗〉の問題はむしろ『法華経』の一乗思想の解釈学的問題であり後期の仏教綱要書でも〈乗〉はまづ三乗として捉えられた。これは、教えをうける側の機根やさとりの質の相違(三種菩提/三種種姓)という初期の大乗徒以来の問題である。Ratnqkara1qntiの『三乗建立』という仏教系統論でもほぼおなじ形態が見られる。(5)〈乗〉という問題は、Kamala1]la や Haribhadra にとっても、三乗/一乗という問題化でしか捉えられていない。(6) 金剛一乗、真言一乗という場合の一乗と大乗とはどうか関わるのか、その点に関する考察が大乗仏教における密教の形成過程を捉える際に、大きな課題となるはずである。

 一方、波羅蜜理趣と真言理趣という分類は、いずれも一切智位と無上正等菩提を究極とする点においては何等相違はない。その両者を分けて説くRatnqkara1qntiの用例にしても、無上等正菩提への乗とする点では差別があるわけではない。勝義においては本源的に同一であり、世俗的な方便の相違の問題として捉えられている。(7)

Ratnqkara1qntiは、一方では『般若波羅蜜多論』という波羅蜜行の観点から智の完成を一方で説きながら,一方では『秘密集会』という方便タントラの代表の註釈をしている。しかし、その両者に説かれる菩提の相は心の如実相(虚空金剛)として、勝義的にはいずれも無上正等菩提の心もしくはその最初の認識である初地菩提心(Candrak]rti によれば初地発心)としてその学説的立場(sthiti)は一貫している。(8)

〈真言門より行を行ずる菩薩〉という概念が、『大日経』以来後期の密教論書にも見られる。大乗仏教における密教の形成を考える場合、『大日経』によく用いられるこのキーワードが重要な意味を持つように思われる。(9)〈波羅蜜行を行ずる菩薩〉と〈真言行を行ずる菩薩〉の相違は何かという問いが、大乗仏教における真言理趣に基づく菩薩の特質、つまり密教の特質として捉えられる。〈波羅蜜理趣〉と〈真言理趣〉という切口が、むしろ顕教、密教という分類の基準を明確にしていくと思われる。この語の周辺に、大乗仏教における密教の形成、あるいはインド文化儀礼の大乗仏教化という観点を明確にする糸口があると思われる。多分、Advayavajra の naya による分類も、この観念に基づくものと思われる。この語の周辺から、大乗仏教における密教の成立過程解明の一つの糸口を探っていきたい。

T. 真言門より行を行ずる菩薩

T.1. 〈真言門より行を行ずる菩薩〉と〈波羅蜜行を行ずる菩薩〉

 〈真言門より行を行ずる菩薩〉という概念が『大日経』では割合よく使われる。チベット語訳の『大日経』を検索すると、三十二の使用例がある。(10)

Buddhaguhyaは、この語をほとんど総ての例において,「波羅蜜行を行ずる菩薩」という語に対比して使用している。(11) Buddhaguhyaのこの語の使用例はAdvayavajraの〈波羅蜜理趣による大乗〉と〈真言理趣による大乗〉という分類にほぼ完全に一致する。これは、たぶん密教の修行者の定義として〈波羅蜜乗による菩薩〉に対比してインドのかなり後期の密教徒にも受け入れられていた観点であろうかと思われる。Sm3tij`qnak]rti Bodhicittavivaraza の註釈をする際に、この語を次のように解説している。(12)

その二菩提心を誰が発すのかというと, それが説かれているのが, 「真言門より]云々 というをもってである。その内「真言」(mantra)とは〈明〉(vidyq),〈護呪〉(rak2q)で ある。無分別智と悲とを本性とするものとして説かれたそれを念誦するからである。その 最初から, 真言門より行を行じて, その最初に入る乗が, 「門」である。 三昧耶戒を護 り, 月輪と文字の種子などを観想することなど, 修習の現証する次第が「行」(caryq)で ある。それを一向に修習するのが「行ずる」ことである。「真言の門より行を行ずる者」 であり, かつ「菩薩」であるから, 「真言門より行を行ずる菩薩」という[同格限定語で 表されている]のであり, 父母の瑜伽とすべきである。



T.2. 『大日経』における用例と『大日経広釈』の解釈

『大日経』において、その両菩薩の観念がどの様に説かれているかを、まず検討しておく必要がある。

T.121.「住心品」における用例では、真言の行者としての性格はあまり明確に現わされていない。「大乗の菩薩でも優れた理解のあるものは」位の意味でしか捉えられない。「住心品」 〈六無畏段〉では、真言門より行を行ずる菩薩には「極無自性心」が生ずるという文脈で使用される。特に真言による行といわずとも、その意味するところは大乗徒一般あるいはせいぜい「優れた大乗徒」と置き換えても意味に差異は感じられない。(13)いっぽう、Buddhaguhya によれば、その真言の行による菩薩は、前世における波羅蜜行の修行によってこそその機根となり、また、真言行による行によって波羅蜜行の達成がなされるとの相関的な意味を有するものでもある。(14)

真言の行のみによる菩薩行という観念は多分見出せないであろう。その意味で菩提心、つまり大乗の悟り(菩提)の境地およびその境地にいたる過程での菩薩の心という概念が、外教徒の真言儀礼と大乗の真言による行とを峻別するメルクマールとなる。(15) そこにその発心をした菩薩という語の意義がある。

T.122. それによって到達するもしくはその根拠となる菩提に相違があるはずはないのは当然であるにしても、両者はまったくの価値的に等しく捉えられていたわけではない。つまり勝義無自性の心としては同一であるにしても、方便である修行の歴史の階梯および悟の境地からの世俗的働きかけという側面において、真言行が波羅蜜行より優れているとの表現が多い。たとえば、「具縁品」が「最上乗」の語を「真言を通じて行を行う修行者の乗」として解釈する場合(16)や、Ratnqkara1qntiが大乗を二分して尽深と広大とに相応する真言の行による大乗とし、尽深とのみ相応する波羅蜜行による大乗とする場合にもそれが伺われる。(17)いずれにしても、その行が無上等正菩提を達成するための優れた機根のものによる行としている。しかし、それは大乗とは別個の乗として理解されているわけではなく、大乗の優れた理趣方便の側面を最勝乗として説いているにすぎない。この場合、最勝乗が大乗とは別個の真言乗とされているわけではなく、真言による(大)乗が最勝乗とされているのである。(18)

T.123.「持明禁戒品」「受方便学処品」では、真言門の行を行う菩薩に特有の戒も説かれる。真言を行ずる菩薩の特殊な修行上の禁戒、世俗への働きかけの際の特別な方便として、勝義無自性の悟の心を具現化する際、密教の戒は、十善業道にしても三昧耶戒にしても、二乗の悟りではない無上等正菩提へのあるいはそれからの真言による大乗の実践行であることにはかわりはない。その学処はあくまでも悟の質ではなく世俗的方便の理趣、つまり明を持する行者の禁戒、菩薩の方便の学処として捉えられる。その特異性が、〈真言門より行を行ずる菩薩の戒〉として説かれるのである。(19)それは、菩薩の戒ではあるが、真言を行ずる菩薩に特有の戒であり菩薩の戒とは逸脱した別の枠組みの戒なのではない。

T.124.例えば,「世出世護摩品」における護摩儀礼はほとんどインドの世天供養の護摩そのものに他ならない。ただ、その秘教的大乗の解釈学による点が以前のHoma 儀礼とは異なる。世間の護摩を大乗化した出世の解釈学がある。それを世間に再生しさらに具体的な儀礼とするのが大乗の護摩である。単なる「内護摩」の秘教的解釈学に止まらない大乗の儀軌化である。世間を通じて出世間を明かし出世間を世間に明かすという真言行の意味がこの場合にも明確化できる。ちなみに、チベット語訳『大日経』はこの「世出世護摩品」と次の「嘱累品」を「真言を通じて菩薩行を行ずる法則」と名づけている。(20)そういった意味では、単なるマントラなどのインド一般の宗教儀礼を導入し大乗化するというというよりは、儀礼を通じて大乗の精神を儀礼として再現するところに密教の仏教化という側面が現れる。

潅頂という儀礼にしても、『十地経』において大乗的秘教の解釈学がなされる。観念化はなされても、『華厳経』ではまだ具体的な秘教儀礼にまでは至らない。(21) その秘教的解釈学をインドの儀礼を基に再儀礼化することによって潅頂儀礼として大乗の儀礼化が完成する。初期唯識において初地菩提心が勝義の菩提心として認識されてはいても、勝義菩提心が秘教的儀礼として修されるのは聖者流の大乗思想の儀礼体系化が完成してからである。(22) 供養(p[jq)はインドの普遍的儀礼である。それを、大乗仏教の理念で大乗化し儀礼化した典型的な例を『大日経』卷七の「供養法」に見ることができる。善無畏は、その法(vidhi)を、チベット訳が「世出世間護摩品」の法を真言行による、とするのと同じように「真言行学処品」つまり「真言による菩薩の行の学処」としている。(23)これが〈真言門より行を行ずる菩薩〉の行、もしくは菩薩行としての真言の行の実態である。この側面を大乗仏教の儀礼化という観点で捉えるか、それともインドの諸文化の儀礼を大乗仏教化すると捉えるか、若干ニュアンスを異にする。このような大乗仏教の儀礼化もしくはさらに展開してインド宗教文化の大乗仏教化という側面をひとつの例を通じて実証してみたいと思う。

U.   菩提心偈の密教儀礼への導入

U.0. 菩提心偈の漢訳儀軌類に於ける適用例について

密教化、儀軌化とはいっても、大乗の理念が変異したわけではない。この場合、大乗仏教思想(勝義の菩提心)の具体化(儀軌化)、世俗(方便)もしくはnaya(理趣)の問題であり、真如が変異することはない。

U.1. 勝義菩提心(法界現証のさとりの心)の定義

後期大乗の菩提心が〈菩提心偈〉という一偈に定型化され、それがいくつかの菩提心修習論書を産み出していった思想史的背景については、かつて詳説した。(24)

sarvabhqvavigata/ skandhadhqtvqyatanagrqhyagrqhakavarjita/ /

dharmanairqtmyasamatayq svacittam qdyanutpanna/ 1[nyatqsvabhqvam //

自心は、あらゆる存在を離れ、蘊、界、処、能取、所取を捨離し、

  法無我平等性なので、本不生にして、空性をその本性とする。  

この〈菩提心偈〉は、『大日経』「住心品」の内容を要約し、「如来出生曼陀羅加持品」で偈頌として完成される。(25) それが、初期唯識以来の初地における法界現証の心つまり勝義の菩提心の樣相を定義化するものとして一般に知られていった。 大乗仏教における密教の形成に関わる問題として大乗教理の儀軌化という典型的な例が「菩提心偈」に現れている。この偈頌に、大乗思想の真言化の形成が跡づけられる。またその偈頌を通じて「供養法」というインドの儀礼が、成就、成仏の儀礼へと大乗化される。

U.11. 菩提心修習論書と菩提心儀軌

この〈菩提心偈〉は二つの形態で後期仏教徒に重要視されていく。一つは、!qntideva の『入菩提行論』などに顕著な止観道としての菩提心修習(26)

の伝統に連なる展開である。つまり、止観道としての菩提心修習、換言すれば禅/智慧波羅蜜の行としての菩提心修習である。『大日経』「如来出生曼陀羅加持品」の〈菩提心偈〉を最初に導入した瑜伽次第であるJ`qnagarbha の『瑜伽修習道』をはじめとして、(27)

後代の Nqgqrjuna の『菩提心註解』(Bodhicittavivaraza)(28)に至るいくつかの菩提心修習論書が著されるようになる。Kamala1]laも『 修習次第』(特に中編)における勝義菩提心修習の止観道も、おなじ傾向の展開である。それはあくまでも波羅蜜行として批判的階梯的哲学理論と波羅蜜行を行ずる菩薩の修行階梯の体系化である。これは、完成された形では、初地菩提心の開顕との関連から初期唯識における修行道の信解行地の四善根位の瑜伽と関連づけられ、勝義菩提心修習の瑜伽次第として一般化される。(29)

菩提心偈が行ぜられる第二の形態は、「真言によって行を行ずる菩薩」にとってという側面で、つまり、菩提心偈を真言儀軌のなかで誦するというような密教的形態の行への導入である。

 菩提心偈の波羅蜜行による修習と菩提心偈の真言儀礼における導入は、先に問題化した大乗の〈波羅蜜行による菩薩〉と〈真言門より行を行ずる菩薩〉との二様の形態を象徴的に示す例と思われる。 Ratnqkara1qntiは『般若波羅蜜多論』『般若波羅蜜多修習論』で、『入楞伽経』X 『秘密集会』XV章135頌によって、勝義菩提心つまり初地現証の心への瑜伽修習を四階梯の瑜伽として体系化している。(30)

その場合『秘密集会』の一偈の解釈を行う場合いわゆる波羅蜜行による初地菩提心(つまり勝義菩提心)開顕の瑜伽として捉える。いっぽう『秘密集会註』では Ratnqkara-1qnti は、同偈頌を現実の密教的瑜伽体験の悉地の相の心の哲学的解説として註釈している。『般若波羅蜜多論』や『般若波羅蜜多修習論』に説かれるような波羅蜜行の四善根位の修行階梯を前提とする初期唯識以来の修行道の観点ではなく、一切法(諸法)を密教的修法の達成した印(悉地)の相である如意宝珠や仏菩薩の顕現として密教の修行(真言による行を行ずる菩薩の内的経験)から論じる。(31) また、Ratnqkara1qntiは、『秘密集会』第二章の Vairocanaの説く菩提心偈を註釈する際の Ratnqkara1qnti の註解の仕方は,哲学的立場は同じであるにしても、いわゆる菩提心修習論書に見られる初期唯識以来の波羅蜜行における四善根位の瑜伽の体系によるものではない。つまり、その修行な方法論が異なるのである。菩提心偈の第一の階梯における「あらゆる存在」は外教徒の崇拝する本尊としての諸天を、五蘊を五仏と同定化し十二処十八界という阿毘達磨の範疇的実在(諸法)を曼陀羅の諸尊格と見る密教の行としての観法を説く。いずれの場合にもその勝義的観点には無形象唯識論という哲学的立場(sthiti)のという枠組みでは、両者になんら相違はない。(32)

彼のこの二面性が、真言門の行と波羅蜜行の相違を象徴する。

〈菩提心偈〉についての漢訳儀軌類の精査からみると、次のような真言行への形態がある。

表T.漢訳密教典籍における菩提心偈の儀軌化

大正番号 訳者 内容 形式 相当頁 関連修法

1 848 善無畏 B A 18- c

2 848 善無畏 C A 18-3b

3 848 善無畏 C A 18-3c

4 848 善無畏 C C 18-46b 発菩提心方便

5 849 菩提金剛 C C 18- 56a 発菩提心方便

6 853 法全 C C 18-145a 大捨三摩地

7 866 金剛智 B B 18-326b- 自心観想

8 868 般若 A A 18-273c

9 885 施護 C C 18-472b

10 915 不空 C C 18-941a 受菩提心戒

11 923 金剛智 C C 19-28b 月輪観

12 930 不空 C C 19-72a 月輪観

13 973 善無畏 B B 19-371a 発菩提心

14 1031 不空 C C 20-5c 菩提心観

15 1056 不空 C C 20-73a 捨無量心

16 1066 不空 C C 20-128b- 捨無量心

17 1072 不空 C C 20-156c 捨無量心

18 1076 不空 C C 20-180c 受菩提心戒

19 1092 菩提流志 A A 20-228a

20 1092 菩提流志 B B 20-235b- 菩提心観

21 1092 菩提流志 B A 20-299b- 菩提心観

22 1092 菩提流志 B B 20-312a- 発菩提心観

23 1098 不空 A A 20-433a

24 1098 不空 B B 20-436a 菩提心観

25 1112 金剛智 B B 20-493a-

26 1196 法賢 C C 20-681c 発菩提心

27 1175 不空 C C 20-518c 発菩提心

U.21.善無畏による「供養法」九方便、発菩提心方便への適用

第二の観点からの密教儀礼への菩提心偈の導入の典型的な例は、『大日経巻七』「供養法」九方便の発菩提心方便への導入(例 4)である。真言的方便としての行にこの偈頌が酒井が述べるように、『大日経』「供養法」九方便そして、聖者流の興隆とともに、『五次第』第四の勝義菩提心潅頂などにおいて『秘密集会』系で重要視される。(33)菩提心偈が真言門の行に適用されるもっとも典型的な例は、善無畏訳『大日経卷の7、真言行学処「供養法」においてである。

この偈頌が実際に儀礼化される直前の教理的完成がこの「如来出生曼陀羅加持品」に見られる。この偈頌が菩提心思想を定型化しそれを儀軌のマントラ化されていくものである限り、この偈頌は菩提心修習の密教的修法と密接に関連している。「供養法」の利用例の検討から云えることは、『大日経』系の「供養儀軌」において最初にこの偈頌は用いられていず、後代善無畏訳『供養法』が訳出される頃に導入されたものである。(34)

つまり九方便の発菩提心方便の真言の功徳を増大させるために「増加の句」として梵語でとなえることがこの方便の際にだけ付け加えられたのである。この場合は、J`qnagarbha の依用例とは全く異なる。つまり禅定の階梯の体系として理解されることなく、そのことばの有用性のみが、関心の的とされるのである。おなじく発菩提心の真言はまさしくその発語が発菩提心の方便(つまり真言による行)として儀礼化の中心的役割を担う。菩提心という大乗の理念を定義する偈頌がその真言力を増大させる句として、真言と同じように漢訳においてもチベット訳においてもあえて翻訳することなく梵語として三度唱えるというように儀礼に導入されていった事実がある。(35)これは、まさしく大乗思想を儀軌化し、真言化するいわゆる真言形成の時期の象徴的事実と云えよう。この場合、その偈頌は、o/ bodhicittam utpqdyqmi という〈発語〉を〈真実〉の境地を示すことによって保証するのである。供養法は、真言行学処品、つまり真言による行のカリキュラムを説く。その真言の一一が〈真言〉としての威神力を獲得するためには、その教理的真実性(真如による保証)がその〈ことばのちから〉を増大する句によって実証されていく、という構造をそこに見ることができる。〈真言〉と〈それを保証する真理性の定義を説く偈頌〉が、相互補償的に〈真言〉による行と〈波羅蜜〉による真理の達成の行を象徴しているかと思われる。事実、その定義は、単なる教理ではなく、現実の儀礼で真言化されていたのである。つまり、その偈頌が初地菩提心開顕の勝義菩提心の象徴として、儀礼としての菩薩の修行過程としての儀礼の次第のなかに真言の意味付けをされて導入されていくのである。発語のもつ威神力 得度儀礼における戒体の形成の際にも真実語のもつ〈ことばのちから〉が戒体を形成する起動因として働く。その歴史的事実が〈受菩提心戒儀軌〉〈勝義菩提心潅頂〉という秘教の儀礼化のなかでその全思想的意味をもって〈真実語〉を具体化していく。大乗仏教思想の儀礼としての具現化の一例としてそれは理解される。しかし、それも、潅頂、禁戒、真実語の威神力の発現というインド文化/儀礼の仏教思想による大乗化という側面なくして仏教内部の儀礼として意味付けられただけのものでないことは、これ以外の多くの事実がそれを明らかにするであろう。

U.22. 不空訳『受菩提心戒儀』における適用例

 受菩提心戒儀軌へ導入されることによって、潅頂儀礼における発語(/真実語)の際にもこの儀礼化は行われる。同じ、傾向は不空訳の発菩提心真言の威力を増加させる頌として使用された『大日経』系の供養法などと同じように、受菩提心の儀礼も実際に阿闍梨の前で発心の意を表現する語が真言的な価値を与えられている。受戒の儀礼において、「よく保つ」という持戒の意を表す発語が戒体を形成する起動因となるのと同じように、受菩提心戒の儀礼にあってもその発心の意の発語が菩提心戒を持する威神力を形成する。そのような意図から、この菩提心の定義の語が、実際の密教儀礼で一種の Formula として誦されることになるのは当然のことであった。しかし、この場合は、供養法の発菩提心の真言と同じように梵本で唱える、という傾向は見られず、むしろ菩提心の本来の姿を明示してそれを持するという観想の意図の方が重んぜられていたかとも思われる。いずれにしても、それが儀礼の場における発菩提心の覚悟の語となる。 漢訳儀軌類における密教儀礼への導入は以上のようであるが、Guhyasamqja 系の儀軌では、『五次第』における第四潅頂たる勝義菩提心潅頂の儀礼への導入例36が古くから注目されている。(36)(37)これも、不空訳の受菩提心戒儀軌と同じ意図での依用例と言える。

U.3. 菩提心観への適用例 - 菩提心修習の密教的形態

その行を行ずる大乗菩薩の行の過程における心が大乗思想の心性説として〈菩提心偈〉に凝縮される。しかし、「住心品」では、偈頌の形成も未完成であり、それが実際の修法と関連づけられることはない。大乗思想の完成と方便行への転換、真言門における行への適用という図式がここに描かれ得るのではないかと思われる。同じことは、不空絹索觀音儀軌への導入の歴史的過程の追跡からも納得されよう。

 漢訳儀軌類では、この偈頌は、「月輪観」や「捨無量心観」の修法の際の観想偈として導入されていく。月輪観への適用例は菩提心観との関連から当然の利用法である。しかし、この観法は、J`qnagarbha や Kamala1]la の菩提心修習とは、方法を異にする。まさしくSm3tij`qnak]rti が定義する〈真言門の行〉である。現実には、その瑜伽の境地を得るために月輪や梵語の種子を観じ,真言を誦する行なのである。その瑜伽が漢訳の儀軌類に多く依用されている。密教修法次第における「四無量心観」の「捨無量心観」の際にも、この偈頌が導入される。それは、一見「菩提心観」とは別系統の儀軌の様にも見えるが、まさに平等空の心の様を定義して観想に資するにはふさわしい内容のものであったのか、この偈頌が捨無量心観の観想の頌として、実際の諸次第に依用されるようになる。不空訳の諸儀軌にその依用例が多い。そのせいか、現在真言宗の中院流で使用される諸次第の「捨無量心観」の観想頌もこの偈頌を使っている。この偈頌の捨無量心への適用例は法全訳の『大日経』の儀軌(用例6)に関説される。とくに不空訳の用例では観音の儀軌との関連が多い。『大日経』と『初会の金剛頂経』の間の成立とされる『不空絹索神変真言経』にこの偈頌が導入されはじめるが、その時期に何らかの漢訳儀軌類に共通する伝承が顕著になっていたものと思われる。いずれにしても、〈勝義菩提心〉の世俗として働く慈悲の根拠となるさとりそのものの無相、平等性を強調する側面が、〈捨無量心観〉という形態として理解されていったものと思われる。



































































1. この論は平成7年度文部省科学研究補助研究「大乗仏教における密教の形成」(代表松長有慶)の研究成果として平成8年4月の同研究会発表原稿をまとめたものである。註は紙幅の関係で最小限度にとどめた。詳細な文獻資料の検討は別稿を期したい。課題は、大乗仏教と密教との接点をどう捉えるか、ということである。古くには大乗から密教へという大乗の単系統の全体的な質的変換という捉え方があった。それには大乗思想の世俗化と堕落という史観が背後にある。これは現在では認め難い。また、大乗仏教の儀軌化という観点(松長提唱)がある。この観点は、後で一例を挙げてその妥当性を実証する。これは、大乗仏教がインドの他の宗教との関連のもとに大乗内部の運動として密教が形成されたいうニュアンスを持つ。基本的には、この観点に同調するものである。しかし、それだけでは密教の形成は説明し難い。インド文化/儀礼の大乗化という側面からいくつかの資料的現象を説明できる。仏教がインド教の影響を被ったという史観からではなく、仏教内部に限定することなくインド文化史上の秘密仏教の形成という観点がむしろ強調されるべきである。

2. Cf.宇井伯寿、「真理の宝環」、『名古屋大学文学部研究紀要』 vol.3-1, 1952, pp.1-31 ;高田仁覚、「インド密教よりみた仏教概要の輪郭」、『密教文化』vols.70,71, 1965, pp. 66f.;松長有慶、『密教経典成立史』, 1980 京都, pp.25ff.

3. Sarvadar1anasa/graha,ed.Abhyaxkar,Poona 1995, pp.19ff..;中村 元、『インドの哲学体系 I』, 1994 東京,pp.64-88.

4. 4.松長有慶[1980],pp.21ff.

.

5. 5.高田[1965], pp.66.

6. 6.長尾雅人、『中観と唯識』, 1978 東京, pp.531-535;生井智紹、「Kamala1]la の一乗思想について」、『印度学仏教学研究』XXXIII,1990,pp.827-832.

Buddhaguhyaの〈三乗〉の用例については、酒井眞典、『大日經広釈全訳』、『酒井眞典著作集第二巻』、1987 京都、p.30,55,80をも参照されたい。

7. 7.高田[1965],p.67,72.

8. 8.生井智紹、「Guhyasamqja XV 135 に対する Ratnqka1qnti の註解」、『密教学研究』vol.22, 1991, pp.65-78.

9. 9.この観点は、すでに高田[1965],松長[1980]により概観的には云われてきた。

10. 10.ACIP(Asian Classic Input Project)遍の CD(Relese 3)にデルゲ版の『大日経』全文が収録されている。その検索結果である。

11. 11.酒井眞典[1987]、pp.3,4.に両者の定義が見られる。

12. 12.生井智紹・三井淳司、「Smtij`qnak]rtiによる『菩提心註解』の解釈」、『高野山大学論叢』vol.31, 1996, pp.129.

13. 13.酒井[1987],pp.52,54f,63f.

14. 14.酒井[1987],pp.76,82,92f,98f.

15. 15.松長有慶、「タントラ仏教の倫理観」、『日本仏教学会年報』 vol 27, 1962, p.193.

16. 16.酒井[1987],pp.98f.

17.

17.高田[1965], pp.66.Ratnqkara1qnti は Praj`qpqramitopqde1a の帰敬頌 6-8 にこの間の事情を説いている。Tohoku No.4079, fol.134a3:

pha rol phyin pa'i tshul la yun rix dka' bas 'bras bur smin //

sxags tshul dka' ba med par myur du byax chub reg par 'gyr //

'di ni btson 'grubs 'bar ba'i stobs ldan lam ni dax po ste //

dax pas rnam par 'phel ba'i blo can rnams 'cig 1os yin //6//

byax chub phyir ni 1in tu dka' bas yun rixs spyod byed pa //

thub pa mams kyi sras po de ni dpa' bo yin s`am byed //

go 'phax de `id myur du bdeb ster ber byed pa'i sxags //

gax gis bcom ldan pha rol phyin mchog ma //

`in re bzdin du bsgoms par gyur pa yis //

de yi lag na pha rol phyin pa lxa //

gnas 1ix sxags kyax rab tu 'grub par byed //8//

18. 18.酒井[1987], pp.30,92. 註 6

19. 19.酒井[1987], pp.374,398, 400,448.

dxos po thams cad dax bral bar mxon par rtogs par 'gyur ro. kha cig ni phux po dax, khams dax, skye mched dax, gzux ba dax, 'dzin pa rnam par spaxs pa stox pa sgyu ma lta bur mxon par rtogs par 'gyur ro. kha cig ni chos la dmigs pas so. gsax ba pa'i bdag po 'on kyax byax chub sems dpa gsax sxags kyi sgo nas byax chub sems dpa'i spyad pa spyod pas 'di ltar dxos po thams cad dax bral ba phux po dax, khams dax, skye mche dax, gzux ba dax, 'dzinpa rnam par spaxs pa, chos bdag med pa m`am pa `id kyi rax gi sems thog ma nas ma skyes pa stox pa `id kyi xo bo `id du rtogs par bya'o. gsax ba pa'i bdag po de la dxos po thams cad dax bral ba zhes bya ba 'xi ni de bzhin g1egs pa 'di la bdag gam sems can nam, skye ba'i 1ed las skyes pa yod pa ma yin gyi, phux po dax, khams dax, skye mched tsam du zod zhes 'jig rten pa'i lam yoxsu spaxs par bstan pa yin no. phux po dax, khams dax, skye mched dax, 'dzin pa rnam par spaxs pa zhes bya ba ni `an thos kyi lam mxon par rtogs pa yoxsu 1es pa'i sgo nas byax chub sems dpa' rnams kyi theg pa chen po mxon par rtogs pa rnam par gzhag pa yin no. chos bdag med pa m`am pa `id kyis ni byax chub sems dpa' gsax sxags kyi sgo nas byax chub sems dpa'i spyad pa spyod pa rnams rax gi sems thog ma nas ma skyes par mthox zhin stox pa `id kyi xo bo `id rdzes med la mtshan `id med par mxon par rtogs par 'gyur ro. gsax ba pa'i bdag po 'di lta bas na byax chub sems dpa' gnas med pa sgrib pa med pa spros pa thams cad dax bral ba'i sems bskyed par bya'o.

 この場合、真言行の菩薩の達する境地、「住心品」の六無畏段ではそれは「極無自性心」と表現される菩提心を示すものであったが、「如来出生曼陀羅加持品」では、その心が五つの境位を一体化した一偈で表現される。これは、真言門の菩薩の第一の段階であるが、それを教理的に述べるだけであって、実際の真言の行との関連は明示されない。それを、J`qnagarbha は教理的につまりd32wi あるいは sthiti から五段階の瑜伽の体系を止観道の立ち場で展開していく。

Cf.生井智紹、『瑜伽の体系と仏道の体系』、『日本仏教学会年報』 vol.54, pp.1989, pp.326-331.

20. 20.酒井[1987], p.456.

21. 21.松長[1980], p.118.

22. 22.酒井眞典、『チベット密教教理の研究』、1956 高野山, p.156.

23. 23. 大正 No.848, vol.18, pp.45f.

24.

25. 25.「如来出生曼陀羅加持品」,ed.服部泰融、『西蔵文大日経』、1931 飯能, pp.582-585: gsax ba pa'i bdag po gzhan yax byax chub sems dpa' gnas kyi gzhi lxas byax chub mxon par rtogs par gyur te, lxo gax zhe na, gsax ba pa'i bdag po 'di la byax chub sems dpa rnams

26. 26.qntideva の菩提心修習については 田上太秀、『菩提心の研究』(1990 東京,pp.416ff.) を、その展開としての菩提心修習次第については、生井智紹、「誓願について」、『日本仏教学会年報』 vol.60,1995,pp.44f.を参照されたい。

27. 27.長沢実導,『瑜伽行と密教の研究』、東京 1978; 生井智紹, 『瑜伽の体系と仏道の体系』、『日本仏教学会年報』 vol.54, pp.1989. J`qnagarbha の〈菩提心偈〉解釈が長沢氏のいうような Guhyasamqja Chap.LL によるのではなく、この『如来出生曼陀羅加持品』によることについては、1996 年の Graz における国際チベット学会において詳細を報告した。Chi.M.Namai, On Bodhicittabhqvanq in the Esoteric Buddhist Tradition, Tibetan Studies, ed. E.Steinkellner, Wien 1997.

28. 28.酒井眞典、「菩提心観釋と菩提心離相論」、『密教文化』 vol.4,1948。最近のこの論の研究については、Graz における国際チベット学会における報告(Chi.N. Namai[1997])) を参照されたい。

29. 29.生井智紹[1991]}「Guhyasamqja XV 135 に対する Ratnqka1qnti の註解」,『密教学研究』vol.23,1991, p.66f.

30. 30.Ratnqkar1qnti のこの側面についての、梶山[1965,1969,1978]、Wayman[1977],桂[1976]などの先行研究については、生井智紹[1991] p.74f. を参照されたい。

31. 31.生井智紹[1991], pp.67-71f.

32. 32.生井智紹[1991], pp.72-74f.



33. 33.酒井眞典[1956], pp.209 註20, 226 註10.

34. 34. 蔵漢両大蔵経に現存する数種の『大日経』系の「供養法」「成就法」を参照しながら,その偈の儀軌への導入の事情を明しておこう。

各種の「成就法」「供養法」で,この偈が問題にされるのは,いわゆる「九方便」の内の「発菩提心方便」の個処である。シナ訳、チベット訳大蔵經所収のその個処を抜出し対照すると,次のような点が注目される。 大正 Nos.850・851・852・852(別本)・853・860等では,この発菩提心方便の個処に菩提心偈は関説されていない。が,『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻7(848番)・『大毘盧遮那仏説要略念誦経』(849番)及びチベット訳『大毘盧遮那現等覚所属怛特羅供養儀軌』(北京版3488番)・『毘盧遮那成就法儀軌』(北京版3489番)等に至ると,この偈が導入されている。そこで問題となるのが,善無畏訳『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻7に,「増加句言,菩提心一切物……云々……」と,この偈が取り入れられるに至った事情である。この『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻7と,『大日経持誦次第儀軌』(860番)は同本異訳とされる(小野塚幾澄、「大日経卷七について」、『印度学仏教学研究』14)が,後者の「 発菩提心方便」の個処に見えない菩提心偈が,前者には「増加句言……」として付加されているのである。

この導入は,善無畏自身の見解による付加なのであろうか,あるいはその原典にすでにこの偈が取り入れられていたのであろうか。善無畏訳のこの個処に,割註 で(宋本・宮内省図書寮本では本文)「此増加句亦同真言,当誦梵本」とあり,事実,チベット訳『大毘盧遮那現等覚所属怛特羅供養儀軌』ではこの偈を音訳し梵文で唱えている点,またチベット訳『毘盧遮那成就法儀軌』では真言として扱っている点等から,少なくとも善無畏の学んだ当時のインドにおける教学では,この偈を発菩提心方便に導入し,サンスクリット語で真言として唱えていたと思われる。

しかし、本来この「発菩提心方便」の個処に〈菩提心偈〉は説かれておらず, 「浄菩提心勝願宝 ……云々……」の句のみではなかったかと思われる。九方便の全体の構成を見ると,七言四句(または六句)の頌が述べられ,次に各方便の真言が説かれるのみであるが,発菩提心方便の部分だけが,この偈を付加されてそのような形になったいる。

あきらかに善無畏訳『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻7より後世の作と思われる『 毘盧遮那成就法儀軌』(松長有慶、「西蔵文毘盧遮那成就法儀軌和訳」、『密教文化』vols.24,25, 1953)では,「浄菩提心勝願宝…云々…」の句と菩提心偈とは,完全に溶融されて一つの偈となっている。さらに後世の不空訳の儀軌に至ると ,この発菩提心方便の真言である。Om bodhicita utpqdayami の真言は,菩提心偈と密接に関係づけられ,この偈が説かれる場合は常にこの真言が唱えられる,という様に,この偈が「浄菩提心勝願宝……」の句に取ってかわっているのである。

35. 服部泰融、前掲書、pp. de nas byax chub kyi sems bskyed par bya'o. saxs rgyas dax byax chub sems dpa' thams cad bdag la dgox su gsol, bdag mix 'di zhes bgyi bo dus 'di nas bzux ste nam byax chub kyi s`ix po la mchis kyi bar du, dxos po thams cad dax bral ba phux po dax, khams dax, skye mched dax, gzux ba dax 'dzin pa rnam par spaxs pa chos bdagmed pa m`am pa'i phyir rax gi sems thog ma nas ma skye pa stox pa `id kyi xo bo `id du ji lta ji ltar saxs rgyas bcom ldan 'das rnams dax, byax chub sems dpa' de rnams kyis byax chub tu sems bskyed pa de bzhin du bdag gis kyax sems bskyedo. de ltar lan g`is de ltar lan gsum du bya'o

36.

37. 37. 酒井[1956], p.226, 註10.