真言理趣による行の確立
−大乗仏教における密教の形成についての一視座-
生井智紹
わたしの課題は、大乗仏教思想史において、成仏への修行体系に密教的修行法がどの様に組み込まれていったかという観点からの密教形成の跡づけである。初期大乗から中期密教における密教的成就法の完成までを視野内に限定した。
研究の成果としていくつかの調査結果が既に論文化され公表されている。
今回のプロジェクトの分担課題のもとにそれを総括して述べれば、次のように概観される。
T. 大乗における修行法と真言理趣の形成
1. 真言門より行を行ずる菩薩
2. 菩薩の行動(業)と<三密>
20. svakarman
21. svacittqdhi2whqna
22. svakqyqdhi2whqna
23. satyqdhi2whqna / dhqraz]
密教という語をどう定義するか多くの問題を孕むが、「真言陀羅尼宗」(1)という語で密教を捉える場合、「真言理趣」(mantranaya)という概念が真言密教という概念にほぼ同義語として位置付けられよう。真言理趣という用法は、いわゆる正純密教とされる『大日経』などでは、「真言門より行を行ずる菩薩」、「真言門による菩薩の行」という修行道の形態で示される。『大日経』におけるその語の用例とAdvayavajra や Ratnqkara1qntiなどによる後期仏教綱要書における「真言理趣」の性格分析などから大乗仏教における密教の行の特色について概説し、「真言門より行を行ずる菩薩」、"On Bodhicittabhqvanq in the Buddhist Esoteric Tradition" と題して公表した。(2)
いずれにしても、「真言理趣」とは、呪(mantra) による儀礼を中心とした成仏法と利他行の実践である。しかし、その目的と出発点(最上の悟りの境地とそれへの発心)において大乗仏教としては何等変質されているわけではない。発菩提心-菩薩心-菩提の境地の心という修行の歴史的階梯は有るにしても、(3)「真言理趣」がそれから逸脱することは決してなかった。ただその方法(naya、理趣)が若干相違するのである。そのような方法がいつごろから大乗内部で現われてきたか、多くの側面からの検討がまたれる。ただ少なくとも、仏教徒と平行してジャイナ教をはじめとする多くのインドの宗教が呪法を修行法のうちに消化吸収していった事実に疑いはない。(4) 「真言理趣」の形成を仏教内部からだけ検討するだけではあまり稔り多い成果は期待し難い。そのような観点から、関連領域の後期ヴェーダ祭式やタントリズム諸派との平行関連のもとに仏教内部における思想史的展開と外的影響という総合的な視点のもとに研究が進められた。(5)
. そこで、まず大乗菩薩の修行法のなかに孕まれる密教の修行法を探るべく、初期大乗仏典、特に『華厳経』を中心として菩薩の修行道について検討を重ねた。「真言陀羅尼宗」にあって、修行法とは「三密加持」である。(6) つまり、修行者の身体的、言語的、精神的行動が仏の身体的、言語的、精神的行動に全的にかなうことである。『華厳経』において<我>(sva)の語は重要な意味を持って使用される場合が多い。その<我>とは普賢菩薩をはじめとする菩薩たちの行への誓願をともにすることを自覚した行為主体と解釈される。その観点を敷延して、自覚的行為主体の行動を、<我業>(svakarman)と捉え、<自心加持>(svacittadhi2whqna)、<自身>(svakqyqdhi2whqna)、<真実語による加持〉(satyqdhi2wqna)もしくは〈陀羅尼〉(dhqraz])という側面から、それぞれの検討を加えた。特に口密に関する<真実による加持〉については、「真言と陀羅尼」と題し、別にまとめる予定である。(7) そこで、密教的修行の原初の形態を探る意味で、『華厳経』を主要な資料として、菩薩の行動と〈三密〉との関連を、まずまとめておきたいと思う。
一、 『華厳経』における〈我業〉
〈我業〉(svakarman)とは、自らの行為という意味である。それには若干検討すべきニュアンスが含まれる。〈業〉(karman)という語は、古代インド思想界にあっては特に輪廻という観念と密接に結びつく。たとえば B3hadqranyakopani2ad では次のような文脈に典型的な使用例を見ることができる。(8)
それ(Qtman)は人の行為に従い、行動に従って、それに応じたものとなります。善行 をなせば善くなり、悪行をなせば悪くなります。福徳の業によって福徳あるものとなり、悪業によって罪あるものとなるのであります。....
執着ある人は、その特徴である思考力(欲望)がつなぎとめられているところへ、 業とともにおもむく。
この世で彼が何をなすにしても、その業(の招く果報)のはてまでいたり、再 びその世界からこの世へと業を積むためにかれはたちもどる。......
無自覚な善悪の行為を重ねることによってアートマンはその自己責任を負うて輪廻する。仏教徒にあっては無我説が説かれ、永続する輪廻の主体であるアートマンは実在しないとされる。しかし、善悪の行為が現象する限り、人がその果報である苦なる生死を自己責任を負うて歴順することに変わりはない。そうした状況のもと、輪廻内に自覚的に自らの行動を起こし、さらには本務(svakarman)(9)を遂行する自我が探求されることになる。その際、自らの行為とその責任とに目覚めた自己は、その行為の規範を求めることになる。それがダルマ(法 dharma) つまり 古代インドに普遍する行動規範との関連で捉えられとき, ダルマ に関する学問( dharma1qstra) が必要とされた。
インド古代において、このsva/karman/dharmaの三者がどのように認識されていたかを検討する場合、この三者の複合語 svakarma および svadharma という語が重要なキーワードとなる。つまり自覚的行為(svakarma)と自覚された行動原理(svadharma) という風にそれぞれを捉えることができる。宿業と称される過去の行為(svak3ta p[rvakarma)とその報いの現状を説明する原理として、社会的要請として社会規範( dharma) が〈業論〉との関わりのもとに世間に確立されていく。他方、その行動の原理として、自らの行動規範(svadharma)に基ずく意識的行為として自からの行為( svakarma) が自覚されることになる。
この状況を知る恰好の資料がインドの大叙事詩マハーバーラタ(Mahqbhqrata)の中に見られる。この語についてマハーバーラタの全文テクストを検索すると、森林章における狩人と聖人の対話の中にこの両者の複合語の典型的な使用例が頻出する。(10)
この部分では、まずある聖者がある人からダルマをよく知る森の狩人のことを聞き、その狩人のもとを訪ねる。そこで、殺戮を生業とする狩人と聖者との間に肉食をはじめとし職業倫理を含めた業と社会的規範についての対話が展開される。狩人のダルマについての知識と気高い精神に感激して、聖者はその殺戮を生業とするあり方が狩人その人にふさわしくないのではないかとの疑問を出す。それに対して狩人は、このような生業は確かに残忍で苦難の生活ではあるが、それはかつての自らの行為に基づくからなのであり、その行為の余力は避け難く振り払い難い、しかしその自らの過去の悪業を清めることに勤め、過去の行為の報いとして与えられた職業を自らの職分として受容しその分をまっとうすることがダルマにかなった自らの行動となる、と説く。過去の業による現在の職分、そして自らの社会的役割(svadharama)にかなった自覚的行動(svakarma)について狩人が陳述していく。
全文の詳細は省くが、その内容から次のような分析が可能となる。
1. (p[rva)svakarma による dharma 上の自己の位置づけ 現状の根拠づけと説明
2. dharma による svakarman の規制 より善き生存への自覚的行動規範
3. svakarma(本務) / svadharma(本分) 理に合した自覚的行動
つまり、〈我業〉(svakarma)とは、自らの行為を自覚して行動する際に"karman"(宿業/行動)および"dharma"(行動の原動力/到達点)が "sva" ( karma / dharmaとの関連で自覚された我)に結い合わされたことばと理解される。それは、自らの過去の行為を社会的規範へと位置づけ、社会的規範の中での行為の意味付けをもたらす原理となる。それも単にこの世のうちで解決され得ない特殊な世界観つまり輪廻のうちで合理化されるものであった。またそれは輪廻内生存として永劫に存続しさまよう個人我(qtman)という生命観に基づく理念(dharma)のもとに人間の行動を意義づける。
大叙事詩のこの部分はまさに典型的なインドの社会精神と実践を示しているといえる。しかし、それがインド諸宗教の思想的背景のもとに、あるいは仏教徒の思想背景のもとに思索されるときに、svakarma について若干の意識の差異が生じてくる。
一、 仏教における行動の二側面
仏教における行為を検討する前に、まずこの点についての仏教徒の意識の一例を見ておきたい。仏教文献における svakarmaの一用例として、次のような文がある。後期密教の時代に、密教徒ナーガールジュナ(龍樹 Nqgarjuna) が『菩提心註解』(Bodhicittavivaraza)を著すが、註釈者である スムリティジュナニャーナキールティ(Sm3tij`qnak]rti)は、冒頭の帰敬頌に次のような註釈を行っている。
この際、まずさとりを現前する最初のこころを発起して、この自らの務め(svakarma/ svakriyq)を妨げるものを鎮めてその完成と自らの教主たる世尊の大いなる功徳を解き明かそうとして聖なるナーガールジュナによって帰敬が説かれる。(11)
この場合、ナーガールジュナのなすべき行為は、世尊の意にかなった正しい教理の説示ということになる。
大乗仏教において行為ということを検討する場合、いのちの捉え方を大きく二つに分けて考えた方がよろしかろう。つまり、無始爾来の生死輪廻と尽未来際の菩薩道という二側面である。いのちのありようを無明にとらわれた六道輪廻のいのちと本来の世界を目指す菩薩たちのいのちという点から二分すると、その営為(業)は過去現在の宿業に制約された非自覚的行為とそれからの超出をめざす自覚的創造的行為としての〈我業〉(svakarma)という二方向性が明らかになる。
これを輪廻という世界観に適用させていくと、いずれもが他世(paraloka)の存在を要請する。まずは、苦の生存の根源としての非自覚的生存の連鎖に現実の苦の根拠を求めようとする際、その前提として前世が要請された。また苦の生存からの超出を目指す方向性をもって捉えられる場合は、然灯仏の下における前世の釈尊の誓願と授記の例が典型的に示すように、理想的修行者としての規範的菩薩(本生菩薩)と普賢を上首とする大乗菩薩たちの修行道への誓願(普賢行願)に基づく自覚的行為の場として、他世が要請される。(12)
そのような輪廻という観念を前提とした行為論を説明する原理として、苦にすぎない心身の生命の維持と展開の根拠(qlaya)である心相続と、その同じ場を智慧と慈悲の習熟の場として連鎖する菩薩の心相続(svacittasantqna)と二様に捉えられた。
!qntarak2ita は、後者の、つまり菩薩の行為の基盤を次のように論じている。
【必然性】 およそ,永続する拠り所に展開し,それを妨げえないものであるかぎり, さらにそれを努力することなくても,如何様にしても[その特性が]培われるよう な[心の徳性],それは,さまざまな優れた[浄化]作用を蒙ることにより,明ら かに,完成の極みに達したものとなることができる。 例えば,金の純粋性の如くに。
【所属性】 この[〈心の相続〉に培われた]智慧とか慈悲とかも,そのような特性をも つものである。
【結論】 [したがって,智慧や慈悲の完成を究めることが可能である。]そして,そ れらの徳性が完成に達し得るなら,そのとき光輝く〈一切智者たること〉があるは ずである。(13)
意識の属性[である慈悲・智慧など]にとって,その〈依処〉となるのは〈心の相続〉 である。そして,それはその〈基体〉[である菩薩]に相応して展開するのであるから, 如何様にしても,滅することはない。(14)
. 註釈者 Kamalas]laはこれを次のように敷延して、述べる。
..智慧などの永遠の拠り所であることはどのように証明されるのか。...すなわち、他世が論証され、慈悲をその本体とする菩薩達は輪廻がある限り残りなき衆生を救い上げるために留まりたもうから、彼らの基体として展開する心の相続は無限に永遠の拠り所とな る。 (15)
.菩提と一切智者性とは自らの心[の相続]に現証されるべきものであるからこそ、菩薩の心こそが仏道の基盤(q1raya)となる。だからこそ、それが自らの自覚的行為の基とされる。その意味で、菩提心が身口意の行動の基(q1raya)となり、菩提に保証される行為が, 普賢行願に則した菩提行として自覚される。つまり法(dharma)に等値される実践原理(svadharma)にかなった自覚的行動(svakarman)となる。そのロジックはインドに普遍の在り方をする。しかし、そのロジックは等しくとも、輪廻的生存者たちの社会的精神の世間的規範(dharma1qstra)に基を置くか、出世の菩提=法界(dharmadhqtu)に置くかによって大きく異なる。
二、 『華厳経』 における〈我業〉の例
「十行品」の第二の行は、『華厳経』「十地品」の第二地の構成と同じ様に戒波羅蜜の修習が問題とされる。引用して掲げる次の文は十行の内三聚浄戒による戒思想を説く第二段落の部分にあたる。「十行品」は『十地経』の構成に十波羅蜜の解釈を付与した構成を採る。まず魔に犯されることない菩薩の不壊の戒として摂律儀戒が示された後, その戒が魔をも調伏して戒行に向わせしめる怨親不二の無差別の繞益有情戒として説かれる文脈のなかに〈菩薩として自覚した行為〉が次のように説かれる。
永沒五欲莫之能出。我今應當作如是學。令諸魔王天女眷屬及一切衆生立無上戒。立淨戒已。又教令得不退轉地一切種智成等正覺。乃至究竟無餘涅槃。何以故。此是我業一切諸佛皆如是學。離諸非行計我無知。觀一切佛平等深法。得一切智。爲衆生説法。斷除顛倒。(16)
自らを菩薩として自覚した菩薩の本務(svakarama)とは、 あらゆる仏の共有する真理(sarvabuddhadharma) にかなった知を以て衆生の顛倒を捨てさせるために(一切の仏と共有される)仏法を教示すること、とされる。それが菩薩の学ぶべき行動である。
「十行品」における菩薩の〈我業〉の自覚は、その自覚的行動の起動因を次のように述べる。(17)
菩薩作是念。我不成就衆生。誰當成就。我不調伏衆生。誰當調伏。我不寂靜衆生誰當寂靜我不令衆生歡喜誰當令歡喜。我不清淨衆生誰當令清淨。.....菩薩作如是觀察。衆生若未成熟。而捨取正覺。是所不應。我當先教化衆生。於無量劫修菩薩行。未成熟者教令成熟。未調伏者教令調伏。諸未度者教令得度。
この行動原理は、大乗菩薩の理想的形態とされた前世おける修行時代の釈尊(本生ボサツ)の然灯仏のもとにおける誓願(18)に起動因としての原型を見ることができる。
その理想的修行者の誓願を規範として共有し行動者として自覚した普賢菩薩をはじめとする大乗菩薩たちの行動規範(普賢行願)が、この場合にも〈我業〉の 起動因となる。その行動原理と行動への起動因は正しくその誓願にある。
密教儀礼における受菩提心戒儀の儀礼がその誓願に基づく同一法(samaya)の自覚であることは、その儀礼の構成からみてうなずかれる。
その自覚された行為(三密瑜伽)が kqyavqgcittavajra(身口意金剛)となるロジックは、自覚的行動者(sva)を基体とする(本)務(karma) と(本)分(dharma) の合致にある点で密教の行においてもかわりはない。
大乗の空、唯心という教理は両者の合致を可能にさせる原理ではある。大乗におけるこの 創造的自覚的実践の起動の契機と作動機構がどう機能するのかが密教の行為論解明への糸口となるであろう。ただ、それが後期ブラーフマナの祭式儀礼やヴェーダの伝統には基づかないタントラ儀礼に外的に相似することにはなっても、少なくとも智・慈悲の起動が大乗内の発働機構によることは確実であろうかと思われる。
三、行動者と加持
行動主体がそのような行動原理に全的にかなう状況を、〈加持〉(adhi2whqna)という語が示している、と思われる。 〈三密加持〉という修行形態が、Sm3tij`qnak]rti のいう「真言門より行を行ずる菩薩」の実践形態であることは、すでに示した。(19)その修行形態における〈加持〉の樣相が如何様に初期の大乗教徒によって自覚されていたかを、見ておくことにしたい。
二、〈自心加持〉一、 〈自心加持〉の用例
『華厳経』の「入法界品」では,五十三人の善知識を尋ねての善財童子 (Sudhana)の求道遍歴の旅が説かれる。文殊菩薩のもとで発菩提心をなし,南に向った善財童子は、第四番目の善知識のもとでの聞法から十二年の求法遍歴の後,解脱長者(Muktaka)のもとを訪れる。まず善財は「欲知一切佛心。欲見一切佛. ..欲自身中出一切佛」つまり「あらゆる仏にまみえ、仏を現しだし、...あらゆる仏をわが身体に実現し、わが行において仏の成就を実現し、不可思議な神変を眼前に直観するため」に発菩提心し、解脱のもとを訪れたことが、述べられる。(20)そこで,解脱長者は,攝一切佛刹無量旋陀羅尼 (sarvabuddhak2etrasamava-
sarazanqmqnantqvartadhqraz])という三昧に入り,仏国土の如来たちの姿をありありと,善財にもとに現し出す。(21) そして,こう説く。(22)
i.というわけで,いかなる方向でも,いかなる世界に於ても,いかなる如来をも, まみえんとわたしが思えば,そのそれぞれの如来にまみえることができる。いかなる時世にであれ,いかなる境界であれ,いかなる前世の修行の過程に於いてであれ,それらの如来にまみえようと望み,いかなる遊戯においであれ,いかなる衆生化度においてであれ,その如来にまみえんと願うなら,わたしはその如来に まみえることができる。
ii.しかも,それらの如来は,ここにおいでになられたのではない。かといって,わたしが,そこに赴いたわけでもない。善男子よ,そのように,わたしは,いかなるところから如来がおいでなされたのでもない,と知る。また,わたしの身体がいかなるところに赴いたのでもない,と知る。如来が夢のごとき表象[にすぎないの]を知る。そしてその夢が自らの心にふさわしい所念の表象であることを知る。その如来が水の反映のごとき表象にすぎないことを知る。そして,自らの心が清らかな水を満たした器の表象であるのを知る。如来が幻化の姿のごとき表象にすぎないことを知る。そして,自らの心が幻のごとき表象であることを知る。如来の音声が山のこだまの音声に応じての響きと知る。そして,その自らの心がこだまのごとき表象であることを知る。
iii.そのように,菩薩にとってのすべての仏法に,自らの心に基づいて,わたしは通達し,それを憶念する。
自らの心に基づいてこそ,あらゆる仏国土の浄化がある。あらゆる仏,菩薩の行ないは自らの心に基づいてこそある。あらゆる衆生を成熟させて化度するのも,自らの心に基づいてある。あらゆる菩薩の誓願が成満するのも自らの心による。一切智者の都城に至ることも,自らの心によってこそある。不可思議なる菩薩の解脱の遊戯の境地も,自らの心によってこそある。仏陀が菩提を正等覚するのも自らの心にあってである。あまねき法界に遍じて大威神力をもって神変をなすのも,自らの心においてこそである。あらゆる劫に微細遍入して遍智するのも,自心においてこそである。
善男子よ,わたしは,こう思う。あらゆる善根をもって,自らの心こそ植え込まれるべきである。自らの心こそが法の雲によって潤おされるべきである。自らの心こそが縁るべき法によって,治浄されるべきである。自らの心こそが精進勇猛さを以て堅固にされるべきである。自らの心こそが,忍辱を以て静穏にされるべきである。自らの心こそが智慧の通達に導かれるべきである。自らの心こそが般若の智慧を以て燃えたたせるべきである。自らの心こそが,自在力を開発すべきである。自らの心こそを,仏との平等性を以て広大にすべきである。自らの心 こそを如来の十力を以て顕示すべきである。
善男子よ,わたしは,このように,無礙莊嚴の如来の解脱を了知し,入出往来するのである。
この〈自らの心の場においてこそ〉<svacittqdhi2whqnaiva> という表現を,漢訳『華厳経』訳者達は,さほど問題化していないようであるが,重要な意味を持つ表現と思われるので,検討を加えておきたい。
まず,最初には,解脱長者の自からの身そのものが仏の世界に同化する事実が,まのあたりに現し出される。そして,第二段では,その如来の姿という自身の客体的側面,そして如来を現し出す心の主体的側面,その両者のあり様が夢,幻のごとき表象(vij`apti)のみにすぎない,という唯心論の原理が示される。しかも,その唯心論は,阿頼耶識の現象論による衆生の生命現象という類のものではなく,瑜伽行者の心の内部に現れる〈仏の影像〉とそれを現し出している修行者の宗教的現場についての唯心論である。おなじ,〈表象のみの世界の原理〉(vij`aptimqtratq)の標榜ではあっても,いわゆる〈影像門の唯識〉という側面に展開するそれである。そして,第三段では,その原理によってこそあらゆる修行の達成が可能であることが,修行法についての善財の問いに対する答えとして与えられる。
そこでは,〈一心〉<ekacitta> という華厳宗義の体系論述上の原理として利用される概念は,さらに具体的に〈自心〉と置き換えられる。仏道におけるあらゆる現象が〈自からの心の場における顕れ〉(svacittqdhi2whqna)と表現される。それは,〈発菩提心〉をなしえた修行者の〈自らの心〉という宗教的実存の具体的な在り方を示すものである。理念としての〈一心〉ではなく,具体的修行のなかにおいて仏を観る場が〈自心〉となる。他の脈絡のことばで云い替えると,〈如実に自心の本源を識知する〉という〈理念的認識〉の在り方が,〈自心の上に仏の世界が現れる〉あるいは〈自心以外に仏の世界がありえないこと〉を確信して現に〈仏に出会う場〉が出現すること,つまり〈仏と修行者とが一体化する地平に立った〉という〈実践的認識〉,それが,<svacittqdhi2whqna>として表現される。
夜摩天会における如来林菩薩の説法は,その原理と可能性の在り方を示すに留まるが,解脱長者のその説法は,〈自心〉において仏が顕現し,また現に〈自心〉に仏を顕現させ得た修行者の具体的宗教経験にかかわる領域を扱う。宗教者の,あるいは瑜伽行者の具体的経験における,唯心の在り樣である。つまり,すでに〈菩提心〉のなんたるかを知り,それを自らの行動の原動力とするものの実践的認識を描くものである。その原理が直感されるとき,そのが具体的に自らの心(svacitta)と表現されたのである。自らを離れた宗教も,自らと疎外された仏も,何の意味ももたないのだから。
二. <自心加持> の語義の背景
<自心加持>とは,そのような修行者の心のありようを示した表現であると思われるが,この語は,後代,あるいは密教的教理がもつといってもよかろうが,重要な意味を持つ語からなる複合語である。研究仮設的な結論をまず述べておくと,この語には,後代に展開する〈菩提心思想〉の諸要素が,ほとんど含まれている。この解脱長者の説法にはその淵源となる諸要素をほぼすべて原初的な形で伺うことができる。
まず,『華厳経』の主要な教義である〈法界=一心〉の思想が,具体的修行者に関わるとき,その在り様は〈自心〉という語に集約される。それは理念としてではなく具体的に〈智〉への志向性をもつ主体を意味する観念である。そこに <sva> という限定がもつ意味があろうかと思われる。そして,その <sva> とは,決して輪廻的生存を継続する惰性的染の縁起を描き続ける主体(我)ではなく,それからの離脱への方向性をもった実践主体(智への方向性をもつ心)である。こうして,その〈自心〉とは,〈菩提心〉という観念に置き換えられる。つまり,〈果への方向性をもった因〉としての〈心〉ということになる。
また、〈自心〉(svacitta)という語は,後代には〈菩提心〉つまり〈菩提の特質を具えた心〉としての〈自らの本源〉を意味することになる。〈自心〉という観念は,密教経典のいたるところにみられる表現,代表的には〈如実知自心〉という観念がその系列にある。そして,それは,〈五相成身観〉における第一の〈自心観察の瑜伽〉などの密教的観法の教理的背景となるものである。七世紀以降,仏教の諸哲学学派の理論がほぼ出揃い,その階梯的に統合化される頃になると,いくつかの〈菩提心修習論書〉群が著わされるが,それは〈心が菩提の相であることを修習するための次第(krama)〉として,体系化されている。そのような傾向は,実際には『大日経』の〈菩提心為因〉〈如実知自心〉というような思想に密接に関連するものと思われる。(23)
いっぽう、〈加持〉(adhi2whqna)という語は,密教文献では特に重要な意味を担うことばである。例えば,〈加持〉を定義する次の文は,決してサンスクリット語そのものの解釈としてはふさわしくはないが,この <svacitta> についての解脱長者の説法との,何らかの関連を示唆する。(24)
加持者表如来大悲衆生信心。仏日影現衆生心水曰加、行者心水能感仏日名持。
先述の〈菩提心〉との関連も,この解釈からは妥当である。菩薩の清涼の心の水にうかぶ仏の影像は,まさしく<adhi2whqna>の語義を如実に示している。
1. <自心加持> と〈菩提心〉
田上太秀氏によって,『華厳経』の「入法界品」にみられる百十八類に譬えられる〈菩提心〉の性格は,次のように,十項目に分析されている。(25)
1. 種子,良田,大地,泉 2. 父母,乳母,友人,君主,調御師
3. 身,眼,手,足 4. 天,神 5. 薬,宝石,宝珠
6. 農耕具,武器 7. 宮殿,家屋 8. 太陽,月,灯火
9. 道,乗物,河 10. 海,山
これは,その機能的観点から次のように統合化することができる。
i.1.菩提心という〈因〉 2.衆生を育む縁であること 3.衆生の自在と安心
ii.1.菩提心のもつ呪術性 2.清浄性と浄化作用 3.汚れを断ずる作用 iii.1.安住する場,帰依処 2.道を照らすもの 3.悟りへの運航手段
iv.(=1, 3.) 修行の源にして最終的な帰入の場
つまり,次の三側面にまとめられる。
i.〈菩提心〉の〈因〉〈縁〉としての原因性
ii.〈菩提心〉のもつ神秘的機能
iii.〈菩提心〉という〈修行の場〉の空間性
その三側面すべての意味で〈自心を場とする顕れ〉であることが,<adhi2whqna> のもつ語義のほとんどすべてを網羅して,〈自心〉と〈さとりの世界〉(菩提)とのあらゆる現象の、つまり〈菩提心〉と〈菩提からの働きかけ〉と〈菩提行〉との在り様が表現されているといえる。
2.〈加持〉(adhi2whqna)の用例と、使用意義
渡辺照宏氏は,かつて<adhi2whqna>の語義を,パーリ文献以降密教の文献に至るまで詳細に精査され,いくつかの用例を分析しておられる。(26)『華厳経』についても「十地品」などの用例を検討されるが,この「入法界品」の用例については,関説されていない。
まず,渡辺氏は,<adhi2whqna> の用語を分析され,次の四種の〈加持〉の語の用例が,初期文献以来の伝統として使用されている,とされる。
1.praj`qdhi2whqna, j`qnqdhi2whqna 2.satyqdhi2whqna
3.tyqgqdhi2whqna 4.upas amqdhi2whqna
そして,大乗経典類,特に「十地品」における〈加持〉の用例の詳細な綿密な考察を為されておる。特にこの「入法界品」さらに厳密に言えばこの解脱長者の説法と密接に関連すると思われる用例は,渡辺氏の挙げられる,次の第 1, 2, 16, 17, 38 例等である。
Dbh No.1. adhi2whqnasarvakriyqsamdar1anaku1ala
〈加持〉が菩薩行にとっての根源的な因縁という菩薩の資格であること。
Dbh No.2. p[rvabuddhasvaprazidhqnqdhi2whqna
強力な意思,誓願との関連する。
毘盧舎那の本願の加持力と菩薩自身の智恵力の間に加持がはじめて成立つ。
Dbh No.16. svakqyqdhi2whqna
自からの身の加持。八地以上の菩薩の威神力による諸仏国土の現出。
Dbh No.17. adhi2whqnakqya
加持された身。願身,化身,加持身,色身。
Dbh Nos.38.
この場面では、まず,解脱に対して善財から,梶山/田村氏訳(27)によれば,あらゆる仏にまみえ,仏を現しだし,仏の平等性に通達し,仏の誓願に通達円満成就し,あらゆる仏をわが身体に実現し,わが行において仏の成就を実現し,不可思議な神変を眼前に直観するために発菩提心し,解脱のもとを訪れたことが述べられる。そしてそれに対して,解脱長者は,三昧に入り,「清浄身をえ、その身内に十方の仏国土の荘厳と仏の生涯を顕わし出した」とされる。
この神変力を示す状況は〈自身加持〉(svakqyqdhi2whqna)が可能な境地にある菩薩の〈加持力〉の在り方を示す。自ら自身を清浄にして,その身内にあらわれる諸仏,如来の〈加持〉による姿の現れを説く第一段の内容には,渡辺氏の用例分析の 第16, 17 ,38 例などに見られる〈加持〉の意味が背景に伺える。
いっぽう,その第二段では,その〈神変〉が〈自心〉における表象としての現象,つまり方便にすぎないことが示される。『般若経』群では,〈菩提心〉が〈自性清浄心〉(cittasya prak3tiprabhqsvara)という遮情の観点から捉えられる。しかし,<svacittqdhi2whqna> という表現は,〈菩提心〉〈菩提行〉のもつダイナミクスが〈表象のみであること〉という原理の上に成り立つこと、つまり〈因分〉のありようを〈唯心〉という原理のもとに示す。〈瑜伽行の実践者〉にとっての〈菩提心〉の問題である。その点で,解脱の説法は,善財の問に全的に答えている。
しかし,解脱長者が善財にうながす <svacittqdhi2whqna> への考察,つまり第三段で示される<自心> という語に関連した〈加持〉の用例には,その威神力を起こす〈起動因〉として,菩薩にとっての最初の資格とされる〈菩提心〉(発菩提心)の在り方を読み取ることができる。
三、 <自心加持> の語義
この<adhi2whqna> のそれぞれの意味は,先に考察した〈菩提への起動因〉としての在り方,そしてその〈菩提心〉という空間的場にこそ大乗の修行と完成がなされること,そしてその〈菩提心〉という場にこそ〈神変〉が顕れ出ることと密接に結び付いて,<svacittqdhi2whqna> として表現される。
原因であること,とは,〈発菩提心〉によってこそ〈修行の完成〉が可能であるとの〈因〉としての完全性、渡辺氏のいう資格の問題である。
威神力という観点に関しては,田上氏が御指摘のように〈菩提心〉という観念そのものが神変力との関わりで捉えられている。つまり,その〈発菩提心〉の威力によってこそ,その〈菩薩自らの心〉においてこそ、仏にまみえ,仏国土の実現が可能になる、換言すれば〈仏の働きかけの顕れる場〉としての保証が示される。
そしてその威神力をはじめとする仏道のあらゆる現象の顕れる場、修行の場は〈自らの心〉以外にはないこと、法界に通ずる唯一の場として〈菩提心〉があること,が示される。
むしろ,その〈加持〉の語の持つ重要な側面が,<自心>を中心としてあらわされている。<svacitta> が <adhi2whqna> の顕現する拠り所となっている,という状態である。
その<adhi2whqna> は仏の神変の起こる場であると同時に,その<svacitta>という器にしか神変は起こり得ない。つまり,それが仏の方便としての働きを起こさせる根源的な〈因〉であることが示される。自ら発した心が,その願いに応じて仏の境涯を現し出す,という在り様に <adhi2whqna> という語義が十全に示される。
<sva>は、〈修行者の〉という主体に限定される〈心〉であることを示している。〈発心〉のもつ威神力こそが,その〈自らの心〉を通じて〈仏〉の世界を顕し出す。<adhi2whqna> は <adhi2whita> という形で受動的に他者からの威力を蒙るばかりではなく, <sva> を自ら <adhi2whqna> するという実存的な方向性をもつ例を渡辺氏はいくつかを紹介しておられる。その主体と他者としての如来とが〈自心における表象の顕現〉として, <adhi2whqna>の状態にあるのが <svacittqdhi2whqna> のもつ全的な意味である。
四、〈心性〉との関わり
教理学的には,経典成立史的には後の成立とされる「夜摩天会」の如来林菩薩の説く「心佛及衆生 是三無差別」のいわゆる〈唯心偈〉に,その原理が示される。そこでは,心を通じて仏の世界への同化の可能性が論ぜられる。この文脈そのものに,仏と心との平等性という教理的背景に基づく〈菩提即心〉という形態での〈菩提心思想〉がみられるかどうかは問題である。〈菩提〉を得るための最適の方法としての〈心の観察〉という原初形態としての傾向は伺うことは可能であるが,〈心性〉即〈仏性〉の教理的背景を前提としているかどうかは,まだ検討の余地がある。しかし,<自心加持> という観念は,『華厳経』に説かれる〈菩提心〉〈菩提行〉を知る上での,ひいては〈菩提心思想〉一般を捉えるための keywordであることは,まちがいない。いずれにしても,その複合語には<adhi2whqna> という語のもついくつかの概念内包のうち、拠り所への顕れ,成就させる威神力,堅固な成就の起動(sqdhana) そのいずれもが示され得るている。
結語
i. 仏の姿を仰ぎ,その仏国土の様をみ,仏国土の莊嚴と仏にまみえるという〈果〉が,いずれも修行に進趣した〈修行者の心〉を原因としている。つまり,「自らの堅固な〈菩提への意思,誓願〉に基づく」という理解。
ii. そして,その発心以降の修行の過程を経て仏にまみえることまでのすべてが「自らの心に顕現する表象としての神変である」とする理解。
iii. さらにその拠り所としての「自らの心こそが,その神変の拠り所として仏と自らとが行き交う唯一の〈乗物〉であり,そのダイナミクスが自らの心以外には現れ得ない」とする理解。
<svacittqdhi2whqna> はそのいずれをも包含する意味を持ち得る。また,そのすべての意味を〈adhi2whhqna〉という語は現しえる。その <adhi2whqna> という現象が成り立つ場が,宗教的実存〈自らの心〉として,限定されることによって,<svacittqdhi2whqna>という語は,〈菩提心〉(bodhicitta>そのもののもつ性格を必要十分に示す語となる。後代の密教文献のなかにみられる〈自心〉(svacitta)は,このような思想史的脈絡のうえに展開されたものであり,〈普賢心〉〈虚空金剛〉などと称される〈菩提心〉の概念に密接に連なるものではないかと思われる。三.〈自身加持〉
一、〈加持〉の三相
〈加持〉(qdhi2whqna)という語は、絶対的な威神力によって〈加持される〉(adhi2whita)と受動態で現されるのが一般的である。しかし、〈自身を加持する〉(qtmqna/ adhi2whqna/ √k3) という表現が、密教文献ではよく使用される。この実践主体の創造的自覚的行為としての加持が、どういう状況を現わそうとしているのかを探って行きたい。
〈自身加持〉の意味は、自身/本尊の三密加持という、実践主体と絶対の威神力との関わりでの行動である。(28)後期密教の『五次第』(Pañcakrama) にsvdhi2whna の用例がある。(29)それが多分、〈自身加持〉に関連する語であろうかと思われる。その際、加持するという能動的側面が、自ら(sva-/ tman-)に対して働く点が顕著な特徴となる。身口意三密の加持ということは、svakqya- / satya(mantra)-/svacitta-adhi2wqna というそれぞれの用例に遡ることが出来る。しかし、それは『五次第』の"svqdhi2whqna" の語義を充足するものとは言い難い点がある。
そこで、adhi2whqna の力学的側面の差異の起源を探り、それがいかに〈自加持〉へと展開するかを概略的に辿って、アウトラインを描いておきたいと思う。
まず、加持の力学的関係を次の様に分類しておくと解りやすいと思う。
口密 加持力 絶対的真理の威神力 / 真言力
加持者 真理/ 真理の語/ 真理を語る者
被加持者 真理を語る者/その影響下にある者/物
三密 意密 加持力 加持する悲/誓願の力〈加〉 加持を信ずる力〈持〉
加持者 誓願を発てた者/その根拠としての真理
被加持者 悲を感ずる/信解する力とそれによって起動される力
身密 加持力 如來の行為/行者自身の行為
加持者 如來/行者
被加持者 如來/行者によって加持される者/ 物
第一の場合は、絶対的な力によって加持される、という一番基本的な用例である。つまり 真理そのものもしくはその体現者たる如来による加持を被るという場面に示される〈加持〉の様態である。渡辺照宏氏はの分類による(30)〈真実による加持〉(satyqdhi2whqna)は、真理およびその体現者の〈真実語〉のもつ絶対的な威神力を意味する。それは口密の場合に〈真言の加持力〉というあり方で見られるようになる。
〈真実による加持〉の場合、真理/如來の絶対的威神力の側面が強調されるが、第二の意密の場合には,如来の威神力を把捉する側の信解力をも含む。特にこの様な意味での能所相互関係の上になりたつ〈加持〉が、『華厳経』などの華厳部全般の特色であることを、渡辺氏は指摘しておられる。この本尊と行者との両者の関係の上での加持の状況を、『即身成仏義』では、自らの三密の加持の説明の際に用いている。(31) これが、密教的修行法としての文脈での用例となる。この場合は,〈自らの三密〉を仏との〈平等性〉の境地に〈持〉させる、という主体的行為が現れる。それは、絶対的威神力を被ると言う段階を一歩進めている。
しかし、密教修法において用いられる〈加持〉の語は、さらに行者の能動性を強調する。真言行者はその威神力を第三の被加持者に能動的に被むらしめる積極的位置に立つ。その際、行者自身が威神力を行使する主体となり、他者に自らの威神力を作用させ影響を被らせる、という積極的能動的実践行の担い手になる。自らが自らの三密を加持して仏/菩薩と共通の地平に立つことによって、第三者にその地平からの威神力を被らせる、という側面が現れる。「四無量心観」における、「わが修する三密の加持力をもって、普賢[観自在(虚空藏)/弥勒/虚空庫]菩薩に等同ならしめん」の定形句は、その間の事情を明らかにする。密教修法では、真言力、絶対的真理の威神力が行者の具体的行為を通じて第三者である被加持者/被加持物にその影響力を現すことも、〈加持〉のもう一つの重要な特徴となる。
以上の様にな密教の加持の特徴が〈自身加持〉という用例に顕著に現されている。そこで、この語の検討を通じて、修行者の行為(三密)に現れる〈加持〉の具体の考察が意味を持つことになるかと思う。〈三密〉そのものが一組となってしかも〈成仏〉を目的とした実践と関わった表現が,『大乗本生心地観経』において見られる。「菩提心品」では、菩提心の空相が論じられた後、菩提心のもつダイナミクスについて菩提心陀羅尼の行法が示される。(32)
一時薄伽梵.為諸衆生宣説観心妙法門已.告文殊師利菩薩摩訶薩言.大善男子,我為衆生 已説心地,復言説発菩提心大陀羅尼,令諸有情発阿耨多羅三藐三菩提 心速円妙果.
爾時文殊師利菩薩曰仏言.世尊,心無形相亦無住処.凡夫行者最初発心,依何等処観何等 相.仏言.善男子,凡夫所観菩提心相,猶如清浄円満月輪,於胸臆上明朗而住.若欲速 得不退転者,在阿蘭若及空寂室,端身正念結前如来金剛縛印,冥目観察臆中明月,作是思 惟.是満月輪五十由旬無垢明浄内外澄徹最極清涼.月即是心,心即是月.塵翳無染妄想不 生,能令衆生身清浄.大菩提心堅固不退.結此手印持念観察大菩提心微妙章句.一切菩 薩最初発心清浄真言.
菴菩地室多牟致破邪彌.(o/ bodhicittam utpqdayqmi.)
此陀羅尼具大威徳,能令行者不退転.未来現在一切菩薩,在於因地初発心時,悉皆専念 持此真言,入不退地速円正覚.善男子,時彼行者端身正念,都不動揺,繋心月輪成熟観察, 是名菩薩観菩提心成仏三昧.若有凡夫修此観者,所起五逆四重十悪及一闡提,如是等罪尽 皆消滅,即獲五種三昧門.
この場合、「加持」という語は使用されず〈陀羅尼力〉という観点から総称されている。しかし、真言が一切の仏/菩薩の真理によって加持され、心が清浄の月輪として如來の身を念じ出す器となり、如來の身と同化する印を結んでいる状態は、実質的には〈三密加持〉による成仏への方向性(菩薩観菩提心成仏三昧)が示されている、と見なすことができる。ここに〈持〉という側面での陀羅尼の意義が見られる。ただ、密教修法の場合、〈三密の加持〉を〈自らの存在〉(qtmabhqva)により具体的に実現するという傾向が強くなる。後述する『初会の金剛頂経』(Sarvatathqgatatattvasa/graha)には、より洗練された形態を伺うことができる。
二、〈三密加持〉の諸形態
〈三密〉各々と〈加持〉の語が結び付く例は、かなり古く初期仏典にも見いだされる。
まず、〈加持〉の語が〈三密〉と結び付く例は、〈口密〉にある。つまり、〈四種加持〉のうちの〈真実語による加持〉<satyqdhi2whqna>である。(33)『法華経』の「薬王菩薩本事品」では、このような〈真実語による加持〉の典型的な例が見られ、渡辺氏によって報告されている。(34)
薬王菩薩は、前世において一切衆生喜見菩薩であったとき、日月淨明徳如來の舍利を自らの腕に炎を灯して供養して、現一切色身三昧を得たとされる。その燃やされた腕が、〈真実語の加持力〉によって、もとどうりになる状況が描かれる。(35) そこでは、 "karomi" と加持の主体が自身であることが示され、"yena satyena satyavacanena" と加持の威神力の根拠が示され、その被る対象が "me kyo", "sva/ mama bhu/" というように、自らそして自らの具体的な肉体の一部であることが明示される。
マントラの〈ことば〉そのものの永遠性を絶対化するミーマーンサーな学派のマントラ 観に対し、Dharmakrti は、実際の所作によって現われる密教儀礼の効果から、マントラも人為的所作であることを証明する。(36) Dharmakrti は、Pramqzavqrttika I 243 に対する自註に,仏教徒の〈真言〉について次の様な見解を述べている。(37)
しかも,マントラとはその名が示すもの以外のなにものでもない。それならどうなのかと云うと,真実[語]と苦行とによる威力を具えた者の望みのことを成就させる〈ことば〉である。それは,[Veda の伝統だけではなく]今日でも,ある人々の間では現に[創成されているのが]見られることである。... それは,真実[語]の加持力(satyqdhi2whqnabala)に基づいて,解毒や解熱[の]効果が現に経験されるからである。
それは、〈ことば〉そのものの持つ呪力性というよりは、真理およびその体現者の利他の誓願による〈加持力〉(adhi2whqna)に根拠をおくものである。そこに、初期仏教以来の〈真実(語)波羅蜜〉(satyapqramitq)と〈真言〉との関わりがある。仏教徒にとって,〈呪句〉は真理の認識に裏付けられた限りで〈真言〉たりえるものであり、世間の〈ことば〉そのものが絶対化されるわけではない。それが〈真理〉と合致し、そして〈加持者の本誓〉に合致したとき絶対的行為(《三密》)に転じるのである。(38)
『初会の金剛頂経』では「五相成身観」のそれぞれの真言が〈自性成就〉(prak3tisiddha) なものとされる。(39) 〈自性成就〉とは、そのことばが真如そのものに合致した真理のことばであることを示しているのであり、ミーマーンサー学派の云うようにことばそのものが本性的に真であるということを現すものではない。真理(真如界)そのものがその場に顕れ出でている、つまり〈加持〉された(satyqdhi2whita)という意味で、本性(真如界)そのものとして成就している威神力をそなえた真言という意味で捉えられる。その場合,その威神力は〈自性成就〉なわけで、〈加持する主体〉および〈被加持者〉の発働に応じるという側面を持つ。もっとも、その誦呪者が加持者との三昧耶(/教誡)を越え背く場合は、加持は威神力を発揮しえないとされる。
〈意密〉との関連での例では、『華厳経』「十地品」や「入法界品」にその典型的な例を見いだすことが出来る。この点については、先述した。(40)特に、「十地品」では、渡辺氏の挙げる用例のうち Dbh No.1 例では、〈加持〉が菩薩行にとっての根源的な因縁という菩薩の資格であることが、Dbh No.2 例では、毘盧舎那の本願力と菩薩自身の智恵力の間に加持がはじめて成立つことが示される。この例では、意つまり修行者側の心に仏の威神力が作用する条件として修行者側にそれに応じるだけの理解力と意思が主体的に働く必要性が明かになる。発菩提心をなした修行者の心だけが仏の威神力を顕わし出すことができる、そして、その意思が仏の側の威神力を発揮させ得る起動因となることが示される。いわゆる加する力とそれを被る力との相互関係の上で達成される〈加持〉の働きのである。
〈口密〉は絶対的真理そのものとの関わり、〈意密〉は〈菩提心〉という〈被加持者の側の主体的意思〉が〈加持する主体である絶対者〉との関連においてはじめて効果を発するのに対して、〈身密〉は〈自身〉を〈能動的に加持する〉という側面を最も明確に具体的に示す。〈身密〉との関連で、〈自身加持〉の語義をより深く理解するために、 <svakqyqdhi2whna>という語との関連から検討して行くことにしたい。〈三密〉すべてが能動的に修行者の行為に変ずるあり方を〈自身加持〉(sva/qtma-adhi2whqna)〉と表現するが、それを自らの肉体的具体性のなかにあらわす <svakqyqdhi2whqna> の用例が密教に典型的な〈加持〉のあり方を示すと思われるからである。
このような〈自身加持〉は自らの身体に関わる、菩薩の境地でも八地以上の菩薩の境地での〈加持〉の有り様に示される。前の〈自心加持〉に関説した際に、特に〈身〉の加持もしくは〈加持された身〉という表現の持つ問題点を指摘した。再説すると、まず解脱に対して善財から「...あらゆる仏をわが身体に実現し、わが行において仏の成就を実現し、不可思議な神変を眼前に直観するために」発菩提心し、解脱のもとを訪れ、それに対して、解脱長者は三昧に入り「清浄身をえ、その身内に十方の仏国土の荘厳と仏の生涯を顕わし出した」(41)という状態になる。この神変力を示す状況は<svakqyqdhi2whqna>と称される菩薩の〈加持〉の在り方を示す。自ら自身を清浄にして自身(svakqya)を諸仏如来の出現の場とする内容には、渡辺氏の用例分析の Dbh Nos.16, 17, 38(42) などに見られる〈加持〉の意味が背景に伺える。
「十地品」の第八地に説かれる〈自身加持〉の文(43)は、この間の事情を明白にする。
つまり、八地以上の菩薩が、あらゆる姿を採って、あらゆる仏国土において、あらゆる道場に、自らの身体(svakqyam)を加持して(adhiti2whati)、引発し(abhinirharati)、示現する(qdar1ayati)状況の際に、また如來が願身/化身/加持身/色身として現れる際に、この「〈身体〉(kqya)を〈加持〉する」という表現が見られる。その際、〈自身〉の内に〈仏国土の荘厳〉〈如来身〉が〈加持/現出〉し、〈仏国土の荘厳〉〈如来身〉の内に〈自身〉を〈加持/示現〉する。解脱の説法はその場が〈自心〉という〈表象のみの世界〉であることを説く。
先述の『法華経』の例が〈身体〉と結びついた加持の典型的な例でもある。薬王菩薩は、前世において十二年の間、如來に供養するために、自らの身体をそれにふさわしい身体にするために香油を飲んで自らを加持し、灯火となる。(44)
この用例では,菩薩が自身を加持する主体として,svakam adhi2whqnam akarot という様に,表現される。この場合、〈加持〉の発働者は菩薩自身であり、加持されるのはその菩薩自らの身体(qtmabhqva)である。
これらの例では、〈加持された身〉という受動的表現が採られることも在るが、実質的には、行動主体としての〈自らの身体を加持する〉という側面を示すものである。しかも、その主体はいずれも〈清浄身〉を得て〈仏〉の境地に極めて近い段階のものについて、表現される。〈加持身〉(adhi2whitakqya) とは、色身、応身として、法身自身が加持されて自らを具体として現す、更にいえば、能動態の加持者そのものが身体化することが,あるいは修行者の肉体(の一部)を場として本源/加持者(sva)が顕れ出ることが、この場合の〈加持〉の在り方である。先の『法華経』の例では、自らの身体を仏に供養するというその行為が、現一切色身三昧を得る前提となる行為であったことには、『華厳経』の svakqyqdhi2whqna の境地が八地および法雲地の菩薩の身体化の状況で示されるのと密接に関連する。このような qtman /sva_ を加持する発働者を一人称で示す例は初期仏教文献では、まれ(45)ではないかと、思われる。
三. 〈自身加持〉と〈自加持〉
〈密教文献〉の実際の修法のなかで使用される〈加持〉の用例は、もちろん〈真言の絶対的威神力〉と〈本尊と共通の地平に立った真如の心の境地そのものの威神力〉との統合的境地の〈絶対的行為〉(三密加持)であるにしても、それを具体的に示す〈身の加持〉が、本尊との平等の地平に立つ具体的行為者としての実践者の在り様を最もよく示す。その場合、自らは、被加持者である自らの肉体〈自身〉であると同時に如來の地平にある主体(智)として、他者たる一切衆生および具体的な被加持物を加持する能動的な威神力の担い手となるからである。
「五相成身観」で〈自身加持〉は、次のような表現でその次第が示される。まず、第一相〈通達菩提心〉、第二相〈修菩提心〉において自らの胸の月輪が清められる。第三相〈成金剛心〉の場合には、自らの胸の清浄化された月輪に金剛の姿が現れ始める。その経緯は、〈自心加持〉(svacittqdhi2whqna)にみられる〈加持〉の樣相である。その〈自心〉のなかにあらわれた金剛(自影像)(46)が如來の身として〈自らの身体〉(qtman)に具現化し(証金剛身)、第五相の〈仏身円満〉の際の表現となる。(47)
そこで、金剛界大菩薩はかの一切如来にかく申し上げた。
「世尊、如来よ、わたし自身が一切如来の体となっているのが見えます。」
そこで、一切如来はお説きになられた。
「だから、偉大なる願いをもつものよ、金剛のごとき本質を具えた汝自らをあらゆる類 の望ましい姿を具えた仏の影像として顕わし出しなさい。そして本質そのものとして完 成されているこの真言をもって、思うがまま、唱えなさい。
O/ yathq sarvatathqgatqs tathqham (オーン、一切如来があるがごとくその如くに わたし自身が)と。」
この様に、〈自身〉(qtman/kqya)を〈自ら〉(sva)が現出/加持する(自影像加持)という有様、つまりより高次の主体が絶対者との共通の地平に立って自らの〈身〉に絶対者を具現化させる、という働きの有り様がみてとれる。〈自心加持〉の心の水に浮かんだ仏の影像、そのイメージを自身として具現化するダイナミクスが、つまり自らの存在(qtmabhqva)を絶対的行為者として具現することが〈自身加持〉のあり方といえる。その結果として、即身に仏を実現し、そこに O/ yathq sarvatathqgatqs tathqham という、自性成就の〈口密〉が自ずから現出する、という次第となる。
もちろん、その aha/ とは、如來の境地に同化した主体であり、かつて自からを主体的に仏の境地に高めようとした実存でもあった。その状況における行者のあり方が真如そのものによって保証されているからこそ、その〈口密〉は〈真理および真理のことばによる加持〉を現出する絶対的なことばとなる。
この『摂真実経』の svqdhi2whna の形態は、"adhi2whqna" と表現されてはいない。が、そこで使用される" bhqvayq" 観想する、現出するという語が、adhi2whqna の状況を示すであろうことは、次の『五次第』の「自加持次第」(svqdhi2whqna)の修法からみても、納得され得るのではないかと思われる。
『五次第』の第三次第の「自加持次第」の場合の行者は、すでに第二次第の心清浄次第を経、秘密潅頂を受けた行者である。(48)そこにみられる〈加持〉の樣相である。その場合の〈加持〉は世俗諦(sa/v3tisatya)との関わりのうち具体的な現象として説かれる。(49)
この場合、〈幻身〉(mqyakqya)という加持のあり方を以て、瑜伽者〈自身〉に現出する能動的主体が具体として働く状況が〈自加持〉として述べられる。 自ら自身が、自らの身(qtman /kqya)にあらゆる仏を顕在化している状況が(50)、〈自(身)加持〉つまり自身をVajrasattva として認識し実現することから展開させていくわけである。
結び.
密教の〈自身加持〉が身体の加持という点に顕著に現れている、ということができる。つまり、現象のダイナミズムへの〈自身〉の具現化という、絶対主体の顕在化である。その場合、如來/八地以上の菩薩の〈威神力による仏国土の荘厳および如来/自身の現出〉という意味での〈自身加持〉にそのような原初の形態が伺える。それは、如来出現の原理として、絶対的真理の神秘力の顕現として〈加持の諸相〉それぞれの局面で示している。
1. 空海、『弁顕密二教論』、『定本弘法大師全集』第3巻、101頁。
2. 生井智紹、「真言門より行を行ずる菩薩」、『高野山大学論文集』、1996. Chisho Mamoru NAMAI, On Bodhicittabhqvanq in the Esoteric Buddhist Tradition, Tibetan Studies,-Proceedings of 7th Seminar of the
International Association of Tibetan Studies- ed. E.Steinkellner, Wien 1997,
3. 生井智紹、『誓願について』、『日本仏教学会年報』第60号、1996.
4. 密教徒ではないにしても仏教哲学者ダルマキールティ(Dharmak]rti) がそのような思想史的状況を伝える記述は重要視されるべきである。Cf.生井智紹、「Dharmak]rti:Svav3tti ad Pramqzqvqrttika I 308 - Dharmak]rti の言及する密教儀礼について-」、『密教学研究』第二十五号, 一九九三。その言及に関する現今の諸研究については、同論に紹介した。
5. その点について、密教文化研究所のプロジェクト「密教の形成と展開」の研究スタッフから多くの知見を得た。
6. 空海、『即身成仏義』、『弁顕密二教論』、『定本弘法大師全集』第三巻、二五頁以下、百頁以下。
7. 平成九年度科学研究費補助研究「華厳経の研究ー大乗から密教へー」(越智淳仁代表)の分担研究課題としている。一分は「華厳級における陀羅尼」と題し、『密教学研究』三十二号に掲載予定である。
8. 服部正明訳:「ウパニシャッドー自己の探求」『世界の名著 1』、九八頁。
この語に興味を持ったのは日本仏教学会の昨年の大会の谷川泰教氏の報告との関連による。
10. .狩人と聖者との対話の部分に、この問題が顕著に示されていることは、徳永宗雄氏の全文電子テクスト Mahqbhqrata (M.Tokunaga E-Text of Mahqbhqrata listed at
ftp://ccftp.kyoto-su.ac.jp/pub/doc/sanskrit/mahabharata/) の検索から明らかになった。特に, 同テクスト0031990133-0031990343行 において、svadharma, svakarma, dharma, karma
の語の用例は顕著である。Vanavqda III.199.15ff. Cf. Trans.ed. J.A.B.van Buitenen, The Mahqbhqrata, Chikago 1975, vol II, pp.624ff. 11. 東北 一八二九、一二二葉裏、de la re shig rtog pa mxon du byed pa'i sems dax pa bskyed pa dax / rax gi bya ba 'di la bar chad shi bar gyur nas mthar
phyin par bya ba dax / rax gi ston pa bcam ldax 'das kyi che ba'i yon tan brjed par 'dod nas 'phags pa klu sgrub kyis phyag 'tshal ba bsuxs pa.... Cf.生井智紹、三井淳司、「Sm3tij`qnak]rti による『菩提心註解』の註釈」、『高野山大学論叢』三一号、一九九六。
12. 他世という世界観を前提とした仏教的人間観の二方向性については、次の論で明らかにした。 Chisho Mamoru Namai, Two Aspects of <paralokasqdhanq> in the Dharmak]rtian Tradition, Studies in the Buddhist Epistemological Tradition, ed.
E.Steinkellner, Wien 1991, pp.227ff.
ye vq sthirq1raye v3ttq4 katha/cid api câhitq4/ tadbhqvqyâpunaryatnavyapek2q bqdhake 'sati // sa/skqrotkar2abhedena kq2whqparyantav3ttaya4 / te sambhavanti vispa2wa/ 1qtakumbhavi1uddhivat// yathq 'bhihitadharmqza4 ime matidyqdaya4 / te2q/ paryantav3ttau ca sarvavittva/ prabhqsvaram //
14. !qntarak2ita, Tattvasa/graha XXVI 3432: mqnasqnq/ guzqnq/ tu cittasantatir q1raya4 / sâdhqrayogato v3tter na kathañcin nivarttate //
15. Kamala1]la, Pa`jikq ad TS XXVI 3432: syqd etat, prajñqdes tu sthirq1rayatvam eva katha/ siddham? ity qha. mqnasqnqm ity qdi. sêty cittasantati4. sqdharayogato
v3ttêti, boddhisattvq1raya-lak2azqdhqrasambandhena prav3tter ity artha4; vi1i2wasyâdhqraya vivak2itatvqt. tathq hi paralokasya prasqdhitatvqd boddhisattvqnq/ ca
sqtm]bh[tamahqk3pqzqm q sa/sqram a1e2asattvoddharazq-yâvasthqnqt tadq1rayavarttin] cittasantatir atitarq/ sthirq1rayq. yq tu 1rqvakqd]nq/ santqna-varttin] sa na
sthirq1rayq4; te2q/ r]ghratara/ parinirvqzqn mandatvqt k3pqyqs te2qm avasthqne yatnqbhqvqd iti bhqva4. Cf.also TSP ad TS 3337, TS(P) 3409-3419.
16. 『六十巻華厳経』「十行品」(大正、九巻 四六七中二)、東北四四、六一七葉表、 de 17. 『六十巻華厳経』「十行品」(大正、九巻、四六九上一三)
18. 18.香川孝雄、「本願思想の源流」、『仏教における誓願』、1995, p.6ff.
19. 生井智紹、「真言門より行を行ずる菩薩」、『高野山大学論文集』、1996.
『六十巻華厳経』(大正、九巻、六九四上)
『六十巻華厳経』(大正、九巻、六九四中)
『六十巻華厳経』(大正、九巻、六九四下ー六九五上); ed.H.Izumi, The GANDAVYUHA SUTRA critically edited, part I, Kyoto 1949, pp.82,83.梶山雄一編、『さとりへの遍歴 上』, 1994, pp.141ff.
生井智紹、「菩提心偈に関する一考察」、『密教文化』、一九七〇、Cj.M.Namai, op.cit.,1997.
空海、『即身成仏義』、『定本弘法大師全集』一巻, 五一六頁。
田上太秀、『菩提心の研究』、一九九〇、一四九頁。
26. 渡辺照宏、「 32. 『大乗本生心地観経』(大正,vol.3,p.328bc.)
34. 渡辺照宏、前掲論文
35. Saddharmapuzfar]kas[tram, ed. P.L.Vaidya, BST No.6, Darbhanga 1960, p.237. mq y[ya/ kulaputr qmqm axgahna] d32wvq rudata, mq krandata, mq paridevadhvam / e2o 'ha/ kulaputrq ye kecid da2asu dik2u
anantqparyantqsu lokadhqtu2u buddhq bhagavantas ti2whanti dhriyante yqpayanti, tqn sarvqn buddhqn bhagavata4 sqk2iza4 k3tvq
te2q/ purata4 satyqdhi2whqna/ karomi, yena satyena satyavacanena sva/ mama bqhu/ tathqgatap[jqparityajya suvarzavarzo
me kqyo bhavi2yati /tena satyavacanena aya/ mama bqhur yathqpaurqzo bhavatu, iya/ ca mahqp3thiv] 2afvikqra/prakampatu,
antar]k2agatq1 ca devaputrq mahqpu2pavar2a/ pravar2antu / iti
36. 若原雄昭 38. 生井, Dharmakrti: Svav3tti ad Pramzavrttika I 308, 『密教学研究』 25, 1993, pp.1-27.
39. Sarvatathqgatatattvasa/graha, ed. Horiuchi, pp.24ff.
生井、「Svacittdhi2whna について」, 『印度学仏教学研究』XLIII-2, 1995.
ed.H.Izumi, The GANDAVYUHA SUTRA critically edited,Kyoto 1949, p.I-79. 『六十巻華厳経』(大正 vol.9, 694c-695a); ed.H.Izumi, The GANDAVYUHA SUTRA critically edited, part I, Kyoto 1949, pp.82,83. i. 善男子,我見十方各一萬佛刹微塵等如如來。彼諸如來不來至此我不往彼。善男 子,我若欲見安樂世界無量壽佛,随意即見。妙樂世界阿蜚@來,善住世界獅子如 來,善現圓滿光明世界月慧如來,寶獅子莊嚴世界毘樓遮那如來,如是等一切諸佛 随意即見。 ii. 彼諸如來不來至此。我不往彼来。知一切佛無所従來。我無所至。 知一切佛及與我心皆悉如夢。知一切佛悉如電光。了知己心如水中像。知一切佛 皆悉如幻。己心亦爾。知一切佛音聲如響。己心亦爾。如是知,如是解,如是入, 善男子,當知菩薩皆由己心,得諸佛法,修菩薩行,淨一切刹,教化衆生,出諸大 願,一切智城遊戯神通不思議門。 iii.諸佛菩提一切自在無礙境界,皆由己心,具甚深 智了一切法。 是故,善男子,以諸善根増長己心,雨甘露法潤澤其心,於境界中令心清淨,勤 修精進,令心堅固,専念正法,令心不亂,智慧明淨,遠離心垢,明淨慧,光照察 其心,生自在心,發廣大心,與諸佛等如來十力以照其心。 善男子,我唯修此如來無礙法門。 i. iti hi kulaputra yasyq/ yasyq/ di1i yasyq/ yasyq/ lokadhqtau ya/ yam eva tathqgata/ dra2wum qkqxk2qmi, ta/ tam eva tathqgata/ pa1yqmi
yasmin yasminn adhvani yasmin yasminn qrambaze yasyq/ yasyq/ p[rvacaryqyq/ tathqgata/ dra2wum qkaxk2qmi, yasmin yasmin vikurvitakqraze
yasmin yasmin sattvavinayakqraze ya/ ya/ tathqgata/ dra2wum qkaxk2qmi ta/ tam eva tathqgata/ pa1yqmi . ii. na ca te tathqgatq ihqgacchanti, na cqha/ tatra gacchqmi, so 'ha/ kulaputra na kuta1cid qgamanatq/ tathqgatqnq/ prajqnan, na kvacid gamanatq/
svakqyasya prajqnan svapnopama vij`apti/ ca tathqgatqnq/ prajqnan svaccittasamavicqravij`apti/ svapnasya prajqnan pratibhqsasamavij`apti/ ca tathqgatqnq/ prajqnann
acchodakabhqjanavij`apti/ ca svacittasya prajqnan mqyqk3tar[pavij`apti/ ca tathqgatqnq/ prajqnan mqyopamavij`apti/ ca svacittasya prajqnan
prati1rutkqgirigho2qnuravazatq/ ca tathqgatagho2asya prajqnan prati1rutkqsamavij`ati/ ca svacittasya prajqnann. iii. evam anugacchqmy evam anusmarqmi svacittqdhi2whqna/ bodhisattvqnq/ sarvabuddhadharma iti. svacittqdhi2whqna/ sarvabuddhak2etrapari1uddhi4 svacittqdhi2whqna/ sarvabuddhabodhi-sattvacaryq svacittqdhi2whqna/ sarvasattvaparipqkavinaya/
svacittqdhi2whqna/ sarva-bodhisattvaprazidhqnqbhinirhqra4 svacittqdhi2whqna/ sarvaj`atqnagarqnuprqpti4 svacittq-dhi2whqnam
acintyabodhisattvavimok2avikr]fanatq svacittqdhi2whqna/ buddhabodhyabhi-sa/bodha4 svacittqdhi2whqna/
samantadharmadhqtusamavasarazav32abhitqvikurvita/ svacittqdhi2whqna/ sarvakalpas[k2masamavasarazaj`qnam iti . tasya mama kupaputraiva/ bhavati, svacittam evopastambhayitavya/ sarvaku1alam[lai4 svacittam eva pari2yandayitavya/ dharmameghai4 svacittam
eva pari1odhayitavya/ qrambaz]yadharmebhya4 svacittam eva drfh]kartavya/ v]ryeza svacittam eva 1am]karta-vya/ k2qntyq svacittam eva
prazayitavya/ j`qnqnugame2u svacittam evottqpayitavya/ praj`ayq svacitta/ evqbhinirharttavya/ va1itqsu svacittam eva vipul]kartavya/ buddha-samatqyq/ svacittam evqvabhqsayitavya/ da1atathqgatabalai4. etam aha/ kulaputrqsaxgavy[ha/ tathqgatavimok2a/ jqnqmy qy[hqmi niry[hqmi.
42. 渡辺照宏、前掲論文
sa eva/ jñnasamanvgato 'sy/ bhmau suprati2whita ekabuddhak2etrc ca na calati.. anabhilpe2u buddhak2etre2u tathgatapar2anmazfale2u ca pratibhsaprpto
bhavati. sa yd3 sattvn/ kyavibhakti ca varzaki/gasa/sthnrohaparizhdhimukty-adhyaya ca te2u te2u buddhak2etre2u par2anmazfale2u tatra tatra tath
kyam darayati.. iti hi bho jinaputra yvanto 'nabhilpye2u buddhak2etre2u sattvnm upapattynatandhimuktiprasars te2u tath tath svakyavibhaktim
darayati... sa sattvakya/ ca prajnti, k2etrakya/ ca karmavipkakya/ ca rvakakya/ ca pratyekabuddhakya/ ca bodhisattvakya/ ca tathgatakya/ ca
jñnakya/ ca dharmakya/ câkakya/ ca prajnti. ... sa sattvn/ cittaybhinirhram jñya yathklaparipkavinayam atikramd
k/k2a/ sattvakya/ svakya/ adhiti2whati.... eva/ k2etrakya/ tathgatakya/ jñnakya/ dharmakya/ kakya/ sattvakyam adhiti2whati ... cittotpde daadia/ sphraza/ gacchati. cittak2eaze cittak2aze câpramz/ abhi-sa/bodhr yvan mahparinirvze vyuhn adhiti2whati. apramzakyat/ ca
tryadhyavagatym adhiti2whati. svakye câprameyz/ buddhn/ bhagavatm aprameyn buddhak2etraguzavyhn adhiti2whati. sarvalokadhtusa/vartavivart ca svakye 'dhiti2whati...... sarvasattv/ câk/k2an yathbhiprya/ rprayla/k3tn adhiti2whati. svakye ca tathgatakyam adhiti2whati. tathgatakye ca svakyam adhiti2whati . tathgatakye svabuddhak2etram adhiti2whati. svabuddhak2etre ca tathgatakyam
adhiti2whati.
Saddharmapuzfar]kas[tram, ed.P.L.Vaidya, BST No.6, Darbhanga 1960, p.237. atha khalu punar nak2atrarqjasa/kusumitqbhij`a sa sarvasattvapriyadar1ano bodhisattvo
mahqsattvas tasyq/ velqyqmagaruru2kakundurukarasa/ bhak2ayati sma, campakataila/ ca pibati sma / tena khalu punar nak2atrarqjasa/kusumitqbhij`a paryqyeza tasya
sarvapriya-dar1anasya bodhisattvasya mahqsattvasya satatasamita/ gandha/ bhak2ayata1 campaka-taila/ ca pibato dvqda1a var2qy atixkrnqtnqyabh[van / atha khalu
nakatrarqjasa/kusumitq-bhij`a sa sarvasattvapriyadar1ano bodhisattvo mahqsattvas te2q/ dvqda1qnq/ var2azq/ atyayena ta/ svam qtmabhqva/ dvyair vastrai4 parive2wya
gandhatailapluta/ k3tvq .
"navakam mam adhiwwhmi " の用例が数例発見される。
〈自影像加持〉については『無二平等最上瑜伽大經王經』 ( 大正 18, 525c etc.)などを参照されたい。
Sarvatathqgatatattvasa/graha, ed. Horiuchi, pp.24ff.
Cf. 酒井眞典、チベット密教教理の研究、p.145ff.,212f.; A.Wayman, Yoga of the Guhyasamjatantra, p.22, 261,279,330, 338.
49. Pa`cakrama, ed. K.Mimaki & T.Tomabechi, Bibliotheca Codicum Asiaticorum 8, Tokyo 1994, p.32ff. svqdhi2whqnakramo nqma sa/v3te4 satyadar1anam / gurupqdaprasqdena labhyate tac ca nânyathq //III.10//
svdhi2whnakrama/ labdhv sarvabuddhamaya4 prabhu4 / janmanhaiva buddhatva/ ni4sa/deha/ prapadyete // III.12 // ... darpaze vimale vyakta/ d31yate pratibimbavat / bhqvbhqvavinirmukto vajrasattva4 sucitrita4 //III.24// sarvqkqravarôpeto asecanakavigraha4 / dar1yet ta/ su1i2yqya svqdhi2whqnam tad ucyate //III.25// iyam eva hi sa/lak2yq mqyq nirdo2alak2azq / mqyâiva sa/v3te4 satya/ kqya4 sqmbhogika1 ca sa4 //III.26// sâiva gandharvasattva4 syqd vajrakqya4 sa eva hi / vajrasattva4 svaya/ tasmqt svasya p[jq/ pravartayet //III.27// qtmq vai sarvabuddhatva/ sarvasauritvam eva ca / tasmqt sarvaprayatnena hy qtmqna/ p[jayet sadq //III.28// darpazapratibimba/ ca svapna/ mqyq/ ca budbudam / indrajqla/ ca sqd31ya/ payet sa prabhu4 sm3ta4 //III.34// sarvatra sarvata4 sarva/ sarvath sarvad svayam / sarvabuddhamaya/ siddha/ sva/ tmna/ sa payati //III.37//